2018年12月16日日曜日

「わが子よと呼び出す神」ホセア書 11:1-11

「まだおさかったイスラエルをわたしはあいした。エジプトからかれし、わがとした」。ホセアしょ強調きょうちょうするのは、なにか「イスラエルがかみだったからしゅがエジプトからみちびした」のではないということです。そうではなく、幼子おさなごであったこの民をしゅあいし、エジプトの奴隷どれいいえからみちびしたから、「わたしのよ」とぶのです(出エジプト6:7)。
そしてマタイによる福音書ふくいんしょは、このようにしてしゅが「わたしのとした」出来事できごとを、幼子おさなごイエスのエジプトくだりにます。メシアとしてまれたイエスを、おうヘロデはころしにかかり、ヨセフはそののがれるため幼子おさなごとそのははれエジプトへのがれました(マタイ2:13-15)。こうるのは、エジプトからイスラエルをし、わがとしたかみが、十字架じゅうじかんだイエスを死者ししゃなかから復活ふっかつさせ、かみとしたからです。教会きょうかいはこのときまれたイエスをかみ告白こくはくします。
幼子おさなごイエスがかみであるのは、たん聖霊せいれいによっておとめマリアよりまれたからではありません。十字架じゅうじかんでほうむられたこのイエスを、死者ししゃなかからかみし、かみがわがとしてくださったからです。そこにしゅイエスをかみ告白こくはくする教会きょうかいのよってところがあります(ローマ1:4)。そしていまや、かみさまはわたくしたちをいたるほかないあゆみからし、かみイエスの十字架じゅうじかからの復活ふっかつあずからせ「かみ」とし、「わたしのよ」とけます。
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御子みこイエスがヨルダンがわでヨハネから洗礼せんれいけたときてんからこえひびききました。「これはわたしのあいする、わたしのこころかなもの」。この声を、わたくしたちも教会きょうかい洗礼せんれいけることでてんからかせていただきます。そしててんにいますしゅイエスがふたたますしゅはわたくしたちをとりこからし、かみとしてかおまえがらせてくださいます。その先取さきどりとして、しゅはわたくしたちを礼拝れいはいへとしておられるのです。