「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」。ホセア書が強調するのは、何か「イスラエルが神の子だったから主がエジプトから導き出した」のではないということです。そうではなく、幼子であったこの民を主が愛し、エジプトの地、奴隷の家から導き出したから、「わたしの子よ」と呼ぶのです(出エジプト6:7)。
そしてマタイによる福音書は、このようにして主が「わたしの子とした」出来事を、幼子イエスのエジプト下りに見ます。メシアとして生まれたイエスを、王ヘロデは殺しにかかり、ヨセフはその手を逃れるため幼子とその母を連れエジプトへ逃れました(マタイ2:13-15)。こう見るのは、エジプトからイスラエルを呼び出し、わが子とした神が、十字架で死んだイエスを死者の中から復活させ、神の子としたからです。教会はこの時生まれたイエスを神の子と告白します。
幼子イエスが神の子であるのは、単に聖霊によっておとめマリアより生まれたからではありません。十字架で死んで葬られたこのイエスを、死者の中から神が呼び出し、神がわが子としてくださったからです。そこに主イエスを神の子と告白する教会のよって立つ処があります(ローマ1:4)。そして今や、神さまはわたくしたちを死に至るほかない歩みから呼び出し、神の子イエスの十字架の死と死からの復活に与らせ「神の子」とし、「わたしの子よ」と呼び掛けます。
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御子イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた時、天から声が響ききました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この声を、わたくしたちも教会で洗礼を受けることで天から聞かせて頂きます。そして天にいます主イエスが再び来ます日、主はわたくしたちを死の虜から呼び出し、神の子として御顔の前に立ち上がらせてくださいます。その先取りとして、主はわたくしたちを礼拝へと呼び出しておられるのです。