「キリストは全ての人の身代わりの犠牲として、わたくしたちの罪を負い十字架で死んでくださった」。そう思い起こすコリントの者たちに対し、パウロはもう一つの側面を確認します。それは、キリストが十字架で死に、死から復活させられたのは、全ての人を代表してなのだ、ということです。わたくしたちを代表してキリストが死に、そして復活させられました。
キリストの死が単に全ての人の罪を代理する死なのなら、わたくしたちは罪赦されてもまた自分のために生きてしまいかねません。そこでパウロは言います。「すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。
キリストが、全ての人の代表として死んでくださった。だからわたくしたちはまだ生きているけれど、わたくしたちも全ての人も死んだことになる。キリストは全ての人を代表して死んだからです。その目的は、まだ生きているわたくしたちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、わたくしたちの代表として死んで復活させられたキリストのため生きることである。そうパウロは強調します。
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代理としてよりも代表としてのキリストの死と復活。そこでの強調点は、わたくしたちの代表として復活させられたキリストにわたくしたちが従うことにあります。もはや自分自身のために生きるのではない、新しく創造された者として立たせていただく。全ての妨げ、隔たりを取り除かれ、ありのままに知られた私が、死を超えてなお神の顔の前に立たせていただける。キリストの教会においてのみ聞くことのできる、造り主なる神からの知らせが、わたくしたちのところにまで届けられてまいりました。