「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです(創世記50:20)」。兄たちに売られたヨセフは、神は、人の思いを超えて、神が見ておられる現実をこの身に実現するお方である、と壮大に語ります。創世記は、天地創造の神が万事を益とする神であると告げ、結末を迎えます。
この神がわたくしたちに呼び掛け、礼拝へと招き、祝福の源である神の民の一員として、用いてくださいます。わたくしたちにはまだ見えないのですが、しかし神が見ておられる良きところへと、わたくしたち一人ひとりを導いてくださいます。パウロは言います。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。わたくしたちも、いまだ見ぬ、神が実現している現実に目を注ぐのです。
神がわたくしたちに備えた将来。それが良きものであることを、神さまは主イエス・キリストを十字架の死から復活させることで証ししてくださいました。死の苦しみを免れられないわたくしたち。しかしそのわたくしたちが与るべき、神のものとしての姿を、そこに現してくださったのです。十字架の苦しみを経て、死に至った主イエス。しかし神さまはその死に勝利し、主イエスをご自身の御前に、ご自身の右の座につかせ、祝福の源としてくださいました。
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神が見ておられる現実がわたくしたちのこの身に実現するべく、神さまはわたくしたちにキリストを主とする道を歩ませてくださいます。たとえ「外なる人」は衰えても、わたくしたちは神が見ておられる現実へと向かわせていただきます。このため礼拝により、わたくしたちを喜んでおられる主の喜びを、繰り返しわたくしたちも知ってゆくのです。「内なる人」が日々新たにされるのを、わたくしたちも確認させていただくのです。