2018年10月21日日曜日

「「内なる人」は日々新たに」コリントの信徒への手紙二 4:16-5:10

「あなたがたはわたしにあくをたくらみましたが、かみはそれをぜんえ、おおくのたみいのちすくうために、今日こんにちのようにしてくださったのです(創世記50:20)」。あにたちにられたヨセフは、かみは、ひとおもいをえて、かみておられる現実げんじつをこの実現じつげんするおかたである、と壮大そうだいかたります。創世記そうせいきは、天地創造てんちそうぞうかみ万事ばんじえきとするかみであるとげ、結末けつまつむかえます。
このかみがわたくしたちにけ、礼拝れいはいへとまねき、祝福しゅくふくみなもとであるかみたみ一員いちいんとして、もちいてくださいます。わたくしたちにはまだえないのですが、しかしかみておられるきところへと、わたくしたち一人ひとりひとりをみちびいてくださいます。パウロはいます。「わたしたちはえるものではなく、えないものにそそぎます。えるものはりますが、えないものは永遠えいえん存続そんぞくするからです」。わたくしたちも、いまだぬ、かみじつげんしている現実げんじつそそぐのです。
かみがわたくしたちにそなえた将来しょうらい。それがきものであることを、かみさまはしゅイエス・キリストを十字架じゅうじかから復活ふっかつさせることであかししてくださいました。くるしみをまぬかれられないわたくしたち。しかしそのわたくしたちがあずかるべき、かみのものとしての姿すがたを、そこにあらわしてくださったのです。十字架じゅうじかくるしみをて、いたったしゅイエス。しかしかみさまはその勝利しょうりし、しゅイエスをご自身じしん御前みまえに、ご自身じしんみぎにつかせ、祝福しゅくふくみなもととしてくださいました。
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かみておられる現実げんじつがわたくしたちのこの実現じつげんするべく、かみさまはわたくしたちにキリストをしゅとするみちあゆませてくださいます。たとえ「そとなるひと」はおとろえても、わたくしたちはかみておられる現実げんじつへとかわせていただきます。このため礼拝れいはいにより、わたくしたちをよろこんでおられるしゅよろこびを、かえしわたくしたちもってゆくのです。「うちなるひと」が日々ひびあらたにされるのを、わたくしたちも確認かくにんさせていただくのです。