わたくしたちは造り主なる神から呼び掛けられる存在として造られました。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神(ローマ4:7)」がおられる。この神との交わりに、何一つ持たぬわたくしたちが、妨げなく受け入れられます。神さまはわたくしたちを慈しみ、どこまでもこの私を存在させるお方として呼び掛けてくださいます。
天地万物の造り主であられ、わたくしたち一人ひとりを造られた神が、このようなお方であるということを、神は十字架で死んだ主イエスを死者の中から復活させ明らかにしてくださいました。わたくしたちが免れぬ死さえも、神との交わりを絶やすものでなく、神はご自身の顔の前にわたくしたちを迎えてくださいます。「「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」
この、神との交わりを宝として与えられています。そしてこの宝を知ることが、わたくしたちにとって福音であり、キリストの復活はこの宝を福音として灯します。パウロは、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と言い、誰もがこの宝を持っているといいます。何か自分の信念や根性など誇るべき力があって、この宝を獲得したのでなく、ただ造り主がわたくしたちを慈しみ、呼び掛けられる存在としてお造りになったから、与えられているのです。
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ですから、教会は「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝え」ます。そうでなければ、一人ひとりに対し与えられたこの福音は覆いが掛かったままとなります。教会はただ神が慈しんでくださった者として、この務めを担うのであり、神の顔の輝きを映し出す似姿として死から復活させられた主を宣べ伝えます。わたくしたちも、こうして神に呼び掛けられ、神の前に共々に礼拝をお献げして参るのです。