2018年10月14日日曜日

「土の器に納めた宝」コリントの信徒への手紙二 4:1-15

わたくしたちはつくぬしなるかみからけられる存在そんざいとしてつくられました。「死者ししゃいのちあたえ、存在そんざいしていないものをして存在そんざいさせるかみ(ローマ4:7)」がおられる。このかみとのまじわりに、何一なにひとたぬわたくしたちが、さまたげなくれられます。かみさまはわたくしたちをいつくしみ、どこまでもこのわたし存在そんざいさせるおかたとしてけてくださいます。
天地てんち万物ばんぶつつくぬしであられ、わたくしたち一人ひとりひとりをつくられたかみが、このようなおかたであるということを、かみ十字架じゅうじかんだしゅイエスを死者ししゃなかから復活ふっかつさせあきらかにしてくださいました。わたくしたちがまぬかれぬさえも、かみとのまじわりをやすものでなく、かみはご自身じしんかおまえにわたくしたちをむかえてくださいます。「「やみからひかりかがやよ」とめいじられたかみは、わたしたちのこころうちかがやいて、イエス・キリストの御顔みかおかがやかみ栄光えいこうさとひかりあたえてくださいました。」
この、かみとのまじわりをたからとしてあたえられています。そしてこのたからることが、わたくしたちにとって福音ふくいんであり、キリストの復活ふっかつはこのたからふくいんとしてともします。パウロは、「わたしたちは、このようなたからつちうつわおさめています」とい、だれもがこのたからっているといいます。なにぶん信念しんねん根性こんじょうなどほこるべきちからがあって、このたから獲得かくとくしたのでなく、ただつくぬしがわたくしたちをいつくしみ、けられる存在そんざいとしておつくりになったから、あたえられているのです。
-->
ですから、教会きょうかいは「自分じぶん自身じしんつたえるのではなく、しゅであるイエス・キリストをつたえ」ます。そうでなければ、一人ひとりひとりにたいあたえられたこの福音ふくいんおおいがかったままとなります。教会きょうかいはただかみいつくしんでくださったものとして、このつとめをになうのであり、かみかおかがやきをうつ似姿にすがたとしてから復活ふっかつさせられたしゅつたえます。わたくしたちも、こうしてかみけられ、かみまえ共々ともども礼拝れいはいをおささげしてまいるのです。