パウロは言います。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」。造り主なる神さまと私とが、面と向かって差し向かいの関係にある。これが、わたくしたちが向かう希望として据えられています。主なる神さまの栄光に包まれ、どこまでもこの交わりが永続する。
モーセは顔と顔とを合わせて主に語りかけられ、この主の御声にいつも聞き従う歩みを与えられました。ただ、このモーセを通し主がお与えになった律法を受けた民は、律法の行いによって神の前に立とうとしました。しかしパウロは、それでは神の栄光の前に覆いを掛けたままだ、と指摘します。「今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったまま」だ、と。神の御声に聞くのでなく、自分の行いや所与の功績に頼ろうとするからです。
ただこの覆いは「キリストにおいて取り除かれるもの」となりました。神さまは、ご自身が恵もうとする者を恵み、わたくしたちを愛しんでくださいます。その、わたくしたちへの造り主としての、心の板に刻まれるべき言葉を、十字架で死んだキリストを復活させ、響かせてくださいました。今やこの神の御声を、キリストによってわたくしたちに届けておられます。神さまはそのようなお方であるという、ご自身の栄光に輝く顔を、復活のキリストに表してくださったのです。
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教会はこのキリストの働きに仕えます。これは人を罪に定める務めでなく、キリストによって人を義とする務めです。キリストによってもたらされた、新しい契約に与らせる洗礼を、一人ひとりに授け、わたくしたちも、主イエス・キリストと同じ姿に造りかえられてゆきます。わたくしたちは礼拝ごとに、この顔の覆いを除かれ、神の顔の前に立ち帰らせていただきます。消え去ることのない主との交わりに、なお生かされてまいるのです。