2018年10月7日日曜日

「この顔の覆いを除かれ」コリントの信徒への手紙二 3:1-18

パウロはいます。「わたしたちはみなかおおおいをのぞかれて、かがみのようにしゅ栄光えいこううつしながら、栄光えいこうから栄光えいこうへと、しゅおな姿すがたつくりかえられていきます」。つくぬしなるかみさまとわたしとが、めんかってかいの関係かんけいにある。これが、わたくしたちがかう希望きぼうとしてえられています。しゅなるかみさまの栄光えいこうつつまれ、どこまでもこのまじわりが永続えいぞくする。
モーセはかおかおとをわせてしゅかたりかけられ、このしゅ御声みこえにいつもしたがあゆみをあたえられました。ただ、このモーセをとおしゅがお与えになった律法りっぽうけたたみは、律法りっぽうおこないによってかみまえとうとしました。しかしパウロは、それではかみ栄光えいこうまえおおいをけたままだ、と指摘してきします。「今日こんにちいたるまで、ふる契約けいやくまれるさいに、このおおいはのぞかれずにかったまま」だ、と。かみ御声みこえくのでなく、自分じぶんおこないや所与しょよ功績こうせきたよろうとするからです。
ただこのおおいは「キリストにおいてのぞかれるもの」となりました。かみさまは、ご自身じしんめぐもうとするものめぐみ、わたくしたちをいつくしんでくださいます。その、わたくしたちへのつくぬしとしての、こころいたきざまれるべき言葉ことばを、十字架じゅうじかんだキリストを復活ふっかつさせ、ひびかせてくださいました。いまやこのかみ御声みこえを、キリストによってわたくしたちにとどけておられます。かみさまはそのようなおかたであるという、ご自身じしん栄光えいこうかがやかおを、復活ふっかつのキリストにあらわしてくださったのです。
-->
教会きょうかいはこのキリストのはたらきにつかえます。これはひとつみさだめるつとめでなく、キリストによってひととするつとめです。キリストによってもたらされた、あたらしい契約けいやくあずからせる洗礼せんれいを、一人ひとりひとりにさずけ、わたくしたちも、しゅイエス・キリストとおな姿すがたつくりかえられてゆきます。わたくしたちは礼拝れいはいごとに、このかおおおいをのぞかれ、かみかおまえかえらせていただきます。ることのないしゅとのまじわりに、なおかされてまいるのです。