わたくしたちは、何一つ持たないで、神に愛され、受け入れられています。主イエス・キリストはこの神のもとにわたくしたちを導いてくださいます。わたくしたちが、御子キリストによって、父なる神さまとの交わりに入れられる(1:9)。これは、わたくしたちが何一つ持たなくとも愛され、しかし神の前に良きものとして受け入れられる、ということを意味します。
もとより、この神さまは、わたくしたちの造り主ですから、何かわたくしたちが手に入れた物によってこの私の価値を認めるなど、ありそうにもないことです。むしろ、何一つ持たない「この私」が、神にとり価値も意味もあるからこそ、神さまはわたくしたちを喜んでくださいます。この神の眼差しへと、キリストが導きます。わたくしたちはこの主に従って、自らを神にお献げします。私を愛してくれる神の招きに信頼し、自らを神の手の中に明け渡してゆくのです。
主イエス・キリストは十字架で死なねばなりませんでした。けれどもその死は、全てのものに意味を持つ死でありました。そのための死であり、献げられた命であったということの証しとして、神さまはこのお方を死者の中から復活させてくださいました。神さまは、この御子の死と復活に与る洗礼と聖餐とによってわたくしたちを愛し、御子に続いてわたくしたちをも死者の中から復活させてくださいます。御子キリストの死と命とは、こうして、全てのものへと意味を持つものとして与えられてゆくのです。
わたくしたちがキリストと一つとされるからには、わたくしたちの死も命も、全てのものに意味を持つものとされることになります。キリストは神の国においてわたくしたちを、愛をもってあまねく用います(マルコ6:41)。この日の先取りとして、わたくしたちは礼拝で愛をもって仕え合い、それぞれ与えられた賜物を献げます。この自分が、キリストにより、神の喜びのため、あまねく用いられる。この日をもたらすキリストをわたくしたちも迎えさせていただくのです。