2018年9月2日日曜日

「なにごとも愛をもって」コリントの信徒への手紙一 16:1-24

わたくしたちは、何一なにひとたないで、かみあいされ、れられています。しゅイエス・キリストはこのかみのもとにわたくしたちをみちびいてくださいます。わたくしたちが、御子みこキリストによって、ちちなるかみさまとのまじわりにれられる(1:9)。これは、わたくしたちが何一なにひとたなくともあいされ、しかしかみまえきものとしてれられる、ということを意味いみします。
もとより、このかみさまは、わたくしたちのつくぬしですから、なにかわたくしたちがれたものによってこのわたし価値かちみとめるなど、ありそうにもないことです。むしろ、何一なにひとたない「このわたし」が、かみにとり価値かち意味いみもあるからこそ、かみさまはわたくしたちをよろこんでくださいます。このかみ眼差まなざしへと、キリストがみちびきます。わたくしたちはこのしゅしたがって、みずからをかみにおささげします。わたしあいしてくれるかみまねきに信頼しんらいし、みずからをかみなかわたしてゆくのです。
しゅイエス・キリストは十字架じゅうじかなねばなりませんでした。けれどもそのは、すべてのものに意味いみでありました。そのためのであり、ささげられたいのちであったということのあかしとして、かみさまはこのおかた死者ししゃなかから復活ふっかつさせてくださいました。かみさまは、この御子みこ復活ふっかつあずか洗礼せんれい聖餐せいさんとによってわたくしたちをあいし、御子みこつづいてわたくしたちをも死者ししゃなかから復活ふっかつさせてくださいます。御子みこキリストのいのちとは、こうして、すべてのものへと意味いみつものとしてあたえられてゆくのです。
わたくしたちがキリストとひとつとされるからには、わたくしたちのいのちも、すべてのものに意味いみつものとされることになります。キリストはかみくににおいてわたくしたちを、あいをもってあまねくもちいます(マルコ6:41)。この先取さきどりとして、わたくしたちは礼拝れいはいあいをもってつかい、それぞれあたえられた賜物たまものささげます。この自分じぶんが、キリストにより、かみよろこびのため、あまねくもちいられる。このをもたらすキリストをわたくしたちもむかえさせていただくのです。