わたくしたちは誰もが、自分に対しても他人に対しても破れを抱えます。聖書は、人との関係が破れてしまうわたくしたちの根底に神との関係の破れを見ます。神の前にある喜びを見失ったわたくしたちは本当の自分を見失い、自分を愛せず、人をも愛することができない罪に陥る。この、破れを抱えた者が、ただキリストによって罪赦され、神の前に立たせていただく。
キリストは、罪人のかしらとして、十字架でその死を負い切ってくださいました。しかしこのキリストが、復活させられたのであり、神は、罪人のかしらとして死んだこのキリストを、御前に立たせ、わたくしたちの主としてくださいました。これはこのお方の死に対する神の勝利の宣言であり、神さまは、わたくしたちの罪と死に対する勝利を、主の復活を証しして宣言するのです。キリストはわたくしたちの罪と死を打ち破り、わたくしたちをも神の御前に立たせてくださいます。
「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦し給え」。こう祈るよう主キリストは命じます。それは罪がただ自分と神との関係だけのことではなく、自分と人との関係においても悲しみをもたらすからです。パウロはコリントの教会にあった悲しい出来事について、原因となった人を赦すよう求めます。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」。
赦す側の、赦した後の責任は、キリストが一緒に負ってくださいます。むしろキリストの責任のもとにこの人を確かに置くよう、求められます。「この者をも、キリストは神の前に立たせてくださる」。キリストは死すべきわたくしたちにまでへりくだってくださったのであり、全てに勝利して、わたくしたちを愛する神のもと、迎えてくださいます。教会はこのキリストを信頼し、この神の喜びへと、一人ひとりをお迎えして参るのです。