2018年9月9日日曜日

「わたしたちの受ける慰め」コリントの信徒への手紙二 1:1-11

パウロはいます、「かみは、あらゆる苦難くなんさいしてわたしたちをなぐさめてくださるので、わたしたちもかみからいただくこのなぐさめによって、あらゆるなんなかにある人々ひとびとなぐさめることができます」。パウロがくるしめられたそのさいたるものは、コリントの教会きょうかいなかに、「パウロが使徒しとなどというのは、ふさわしくない」と批判ひはんする不信頼ふしんらいこえがあったということです。
たしかに、かつてパウロは教会きょうかい迫害はくがいしました。そしてステファノのさつがい賛成さんせいしました(使徒言行録8:1)。そのパウロですから「使徒しとにふさわしくない」と指摘してきされたら、そうでありましょう。パウロは自分じぶんただしさのうえつことなどできません。ですが、そのパウロをキリストはおてくださいます。パウロは、そうしてくださるしゅ信頼しんらいし、不信頼ふしんらいものたちにむかいます。「自分じぶんたよりにすることなく、死者ししゃ復活ふっかつさせてくださるかみたよりにするようになりました」。
パウロをみとめないものたちはパウロのめてきます。たとえ不信頼ふしんらい解消かいしょうされても、パウロが教会きょうかい迫害はくがいした過去かこしようがありません。ですからパウロのくるしみはのこります。なおえねばなりません。
そこでのなぐさめとは、くるしみがなくなるというものではありません。またなにか、くるしみによってかきみだされたこころおだやかになる、というようなものではありません。パウロにとってくるしみはなくならないのですが、過去かこせないからるのをあきらめてしまおう、というものでもない。

むしろここでパウロがいただくなぐさめは、たとえ相手あいてからめられても、なおそこでってく、あしみしめてゆくための、しゅからのはげましです。められるがこれまでの自分じぶんにあっても、それでもしゅイエス・キリストはごようのためなおこれからわたしたせてくださる。このしゅへの信頼しんらいはげましであるのです。このなぐさめをかみはわたくしたちにおあたえになります。わたくしたちは、すべきこの身をも復活させになる、かみ信頼しんらいし、なお礼拝れいはいをおささげしてまいるのです。