パウロは言います、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。パウロが苦しめられたその最たるものは、コリントの教会の中に、「パウロが使徒などというのは、ふさわしくない」と批判する不信頼の声があったということです。
たしかに、かつてパウロは教会を迫害しました。そしてステファノの殺害に賛成しました(使徒言行録8:1)。そのパウロですから「使徒にふさわしくない」と指摘されたら、そうでありましょう。パウロは自分の正しさの上に立つことなどできません。ですが、そのパウロをキリストはお立てくださいます。パウロは、そうしてくださる主に信頼し、不信頼の者たちに立ち向います。「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。
パウロを認めない者たちはパウロの非を責めてきます。たとえ不信頼は解消されても、パウロが教会を迫害した過去は取り消しようがありません。ですからパウロの苦しみは残ります。なお耐えねばなりません。
そこでの慰めとは、苦しみがなくなるというものではありません。また何か、苦しみによってかき乱された心が穏やかになる、というようなものではありません。パウロにとって苦しみはなくならないのですが、過去も取り消せないから見るのを諦めてしまおう、というものでもない。
むしろここでパウロがいただく慰めは、たとえ相手から責められても、なおそこで立って行く、足を踏みしめてゆくための、主からの励ましです。責められる非がこれまでの自分にあっても、それでも主イエス・キリストはご用のためなおこれから私を立たせてくださる。この主への信頼と励ましであるのです。この慰めを神はわたくしたちにお与えになります。わたくしたちは、死すべきこの身をも復活させになる、神に信頼し、なお礼拝をおささげしてまいるのです。