「あなたはなぜ、キリストを信じるようになったのか」。そう問われても、多くの人はおよそ「答えようがない」でありましょう。最後の最後、なぜ信じるようになったのか、信じない者から信じる者へと自分を変えたのは何によるのか。尋ねられても、自分の側に持っているものはありません。自分の側に答えはありませんが、信じるよう変えられたのです。
「主を信じる」というのは、人間の行為です。ですがその人間の行為を生じさせるのは、神の力によります。それは何か「自然に」「自ずから」信じるというのではなく、また何か人の知恵や熱心な努力によってわたくしたちは信じ始めるのでもない。むしろ神が、たくしたちの歩みに介入し、思いもしなかったことを起こされた。パウロは言います、「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるため」キリストを宣べ伝えたのだ、と(2:5)。
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造り主なる神さまは、造られた一人ひとりに顔を向け、目を注ぎ、「お前は私のものだ。ここにいろ」とわたくしたちを招きます。わたくしたちをお造りになった方の声、わたくしたちの死に勝利するこの神の言葉に、わたくしたちも触れておくことが大切です。この言葉を届けるため、主イエスは教会を用います。今や造り主なる神さまは、呼びかける声にわたくしたちが聴き、神の国をわたくしたちに受け継がせるため、礼拝により、キリストの死と復活を告げているのです。