2018年8月26日日曜日

「神の国を受け継ぐ」コリントの信徒への手紙一 15:50-58

「あなたはなぜ、キリストをしんじるようになったのか」。そうわれても、おおくのひとはおよそ「こたえようがない」でありましょう。最後さいご最後さいご、なぜしんじるようになったのか、しんじないものからしんじるものへと自分じぶんえたのはなにによるのか。たずねられても、自分じぶんがわっているものはありません。自分じぶんがわこたえはありませんが、しんじるようえられたのです。
しゅしんじる」というのは、人間にんげん行為こういです。ですがその人間にんげん行為こういしょうじさせるのは、かみちからによります。それはなにか「自然しぜんに」「おのずから」しんじるというのではなく、またなにひと知恵ちえ熱心ねっしん努力どりょくによってわたくしたちはしんはじめるのでもない。むしろかみが、たくしたちのあゆみに介入かいにゅうし、おもいもしなかったことをこされた。パウロはいます、「あなたがたがひと知恵ちえによってではなく、かみちからによってしんじるようになるため」キリストをつたえたのだ、と(2:5)。
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つくぬしなるかみさまは、つくられた一人ひとりひとりにかおけ、そそぎ、「おまえわたしのものだ。ここにいろ」とわたくしたちをまねきます。わたくしたちをおつくりになったかたこえ、わたくしたちの勝利しょうりするこのかみ言葉ことばに、わたくしたちもれておくことが大切たいせつです。この言葉ことばとどけるため、しゅイエスは教会きょうかいもちいます。いまつくぬしなるかみさまは、びかけるこえにわたくしたちがき、かみくにをわたくしたちにがせるため、礼拝れいはいにより、キリストの復活ふっかつげているのです。