わたくしたちが誰かを愛するとき、そこでは自分を差し出し、自分に死ぬということが伴います。ただ、そこから始まる命があります。相手に飛び込まずして、この命は得られません。逃げ道を残し、自分に予防線を張ったまま相手を愛そうとしても、相手は駆け引きの対象となるばかりです。相手との関わりが深くなればなるほど、そうではないでしょうか。
自分に死んで飛び込むのなら、そこでは相手への信頼が問われます。私が相手を信頼し自らを差し出すことを、求められます。もし相手に受け入れられれば、私はそれまでの自分とは異なります。自分を受け入れ、愛してくれる相手との交わりにある自分へと命を得るからです。そしてわたくしたちも、新しい命を生かされるこの自分との、掛け替えのない出会いを与えられます。これは相手を愛するまでは自分も知らなかった、新しい私の姿であり命です。
神を愛し、神を信じるのも、これと同じです。パウロは言います、「死ななければ命を得ない」。パウロが見ますのは、キリストに結ばれたわたくしたちの姿です。土ででき、地に属するアダムに等しいわたくしたちが、復活の主イエス・キリストに結ばれ、天に属する御子キリストの似姿になる。
自分に死に、神に自らを差し出すとき、父なる神さまはご自身との交わりに迎えてくださいます。キリストはこの礼拝にわたくしたちを招きます。