2018年8月19日日曜日

「天に属するその人の似姿」コリントの信徒への手紙一 15:35-49

わたくしたちがだれかをあいするとき、そこでは自分じぶんし、自分じぶんぬということがともないます。ただ、そこからはじまるいのちがあります。相手あいてまずして、このいのちられません。みちのこし、自分じぶん予防線よぼうせんったまま相手あいてあいそうとしても、相手あいてきの対象たいしょうとなるばかりです。相手あいてとのかかわりがふかくなればなるほど、そうではないでしょうか。
自分じぶんんでむのなら、そこでは相手あいてへの信頼しんらいわれます。わたし相手あいて信頼しんらいみずからをすことを、もとめられます。もし相手あいてれられれば、わたしはそれまでの自分じぶんとはことなります。自分じぶんれ、あいしてくれる相手あいてとのまじわりにある自分じぶんへといのちるからです。そしてわたくしたちも、あたらしいいのちかされるこの自分じぶんとの、えのない出会であいをあたえられます。これは相手あいてあいするまでは自分じぶんらなかった、あたらしいわたし姿すがたでありいのちです。
かみあいし、かみしんじるのも、これとおなじです。パウロはいます、「ななければいのちない」。パウロがますのは、キリストにむすばれたわたくしたちの姿すがたです。つちででき、ぞくするアダムにひとしいわたくしたちが、ふっかつしゅイエス・キリストにむすばれ、てんぞくする御子みこキリストの似姿にすがたになる。
自分じぶんに、かみみずからをすとき、ちちなるかみさまはご自身じしんとのまじわりにむかえてくださいます。キリストはこの礼拝れいはいにわたくしたちをまねきます。