子どもは、父親の膝の上に乗って、絵本を読んでもらうのが大好きです。そうしてもらうのが一番だと知っています。絵本の言葉がすべてはわからなくても、読んでもらう絵本の世界に自分も入って、安心します。その声に聞いて、読んでいる親の言葉の世界、語りかける親の心の世界に満たされます。そうしてくれるのを子どもは求め、その声を待っているのです。
わたくしたちと天の父なる神さまとの関係もそうです。このお方はわたくしたちの造り主です。わたくしたちはこのお方の膝に抱かれ、その声に聞くことを求めています。神さまも、そのようにわたくしたちを招きます。
最初の人アダムについてもそうです。アダムは、取って食べるなと言われた木から実を取って食べてしまった。そこで彼は目を開かれますが、神さまの前に立てなくなりました。神さまの顔を避け、木の間に隠れます。神さまとの間に隔てるものを設けます。
ところが、神さまはアダムによびかけます。「お前はどこにいるのか」。
神さまはわたくしたちが合わす顔を持たず、神を知らず神なしで歩もうとするのに、胸を痛めます。「お前はどこにいるのか」。「ここにいろ」と呼びかける、わたくしたちの神がおられます。この神さまの顔を、神さまは御子キリストを十字架の死から復活させ現してくださいました。わたくしたちの死さえも超え、ご自身の顔の前にわたくしたちを立たせようとするご意志を現してくださったのです。
パウロは、「正気になって身を正しなさい」と言います。わたくしたちの死を超えて「どこにいるのか」と呼びかけ、神さまの顔の前に立ち上がらせてくださる神がおられるからです。今や神の右に座しておられる御子キリストが、このご支配をわたくしたちに届けるため、ご自身の死と死からの復活を告げ知らせる礼拝に招きます。礼拝に迎えられた一人ひとりが、神さまの膝の上でその声に聞くよう、わたくしたちを招いておられるのです。