2018年8月5日日曜日

「キリストは死に勝利した」コリントの信徒への手紙一 15:20-28

パウロはいます。「すべてが御子みこ服従ふくじゅうするとき、御子みこ自身じしんも、すべてを御自分ごじぶん服従ふくじゅうさせてくださった方に服従ふくじゅうされます。かみがすべてにおいてすべてとなられるためです」。
わたくしたちがかみを信じるというとき、そこにはかみさまへの服従ふくじゅうともないます。かみさまへの服従ふくじゅうは、一方いっぽうで、わたくしたちの敗北はいぼくとなります。わたくしたちはかみさまにかされる。
そうきますと、屈辱的くつじょくてき要求ようきゅうきつけられているようにおもうかもしれません。ただ、一方いっぽうでそのわたくしたちは、かみをまるで偶像ぐうぞうのようになずけたいというのでしょうか。いま自分じぶんにあった偶像ぐうぞうち、うまくいっているうちはそれでいのかもしれません。しかし一度ひとたびたおれれば、ほかたよれる偶像ぐうぞう目移めうつりします。そしてどうにもそのさきみちがないのであれば、わたくしたちはなにもかもかんがえるのをめ、あきらめることへといたほかなく、それでわってしまう。
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そうではない、わたくしたちのにさえ勝利しょうりし、わたくしたちのこうから、「そうではない、おまえいのだ」とわたくしたちのあきらめをやぶってくださるこえを、わたくしたちはもとめているのではないでしょうか。
かみへの服従ふくじゅう敗北はいぼくわりません。かみへの服従ふくじゅうは、勝利しょうりしたキリストのいのちかされることです。わたくしたちのせい根源こんげんがこのかみにあるとけ入れ、承服しょうふくし、「このかみきものとしてわたくしたちをおつくりになった」という感謝かんしゃ賛美さんびなのです。
教会きょうかいは、このキリストの支配しはいのもとにわたくしたち一人ひとりひとりをまねき、わたくしたちの勝利しょうりしたしゅイエス・キリストをつたえ、すべてをはいするキリストのおはたらきをとどけます。ほろびゆくものでしかなかったわたくしたちが、キリストのからだ一部一ぶとされ、初穂はつほとして復活ふっかつさせられたキリストにつづいて復活ふっかつさせられる。やがてむかえるその先取さきどりとして、ここにかみとのしたしいまじわりをあたえられ、感謝かんしゃ賛美さんびをおささげしてまいるのです。