パウロは言います。「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」。
わたくしたちが神を信じるというとき、そこには神さまへの服従が伴います。神さまへの服従は、一方で、わたくしたちの敗北となります。わたくしたちは神さまに打ち負かされる。
そう聞きますと、屈辱的な要求を突きつけられているように思うかもしれません。ただ、一方でそのわたくしたちは、神をまるで偶像のように手懐けたいというのでしょうか。今の自分にあった偶像を手に持ち、うまくいっているうちはそれで良いのかもしれません。しかし一度倒れれば、他に頼れる偶像に目移りします。そしてどうにもその先に道がないのであれば、わたくしたちは何もかも考えるのを止め、諦めることへと至る他なく、それで終わってしまう。
そうではない、わたくしたちの死にさえ勝利し、わたくしたちの死の向こうから、「そうではない、お前は良いのだ」とわたくしたちの諦めを突き破ってくださる声を、わたくしたちは求めているのではないでしょうか。
神への服従は敗北で終わりません。神への服従は、死に勝利したキリストの命を生かされることです。わたくしたちの生の根源がこの神にあると受け入れ、承服し、「この神が良きものとしてわたくしたちをお造りになった」という感謝と賛美なのです。
教会は、このキリストの支配のもとにわたくしたち一人ひとりを招き、わたくしたちの死に勝利した主イエス・キリストを宣べ伝え、すべてを支配するキリストのお働きをとどけます。滅びゆくものでしかなかったわたくしたちが、キリストの体の一部とされ、初穂として復活させられたキリストに続いて復活させられる。やがて迎えるその日の先取りとして、ここに神との親しい交わりを与えられ、感謝と賛美をおささげしてまいるのです。