「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです」。そう言うパウロは、かつて律法を厳格に遵守する教育を受け、非の打ち所なく(使徒23:3、フィリピ3:6)、清くない動物など食べませんでした(使徒10:14、レビ11)。そのパウロが思い切ってこう言います。
それは、神との関係が食べ物によって損なわれるわけでないことを、キリストにより示されたからです。キリストは、律法によれば神に呪われて死んだとみなされました(申命記21:23)。ところが、その神にあっては、死さえもその関係を妨げ得ず、むしろ神はわたくしたちを死にまさって主のものとする。この証しとして、キリストは復活させられ、弟子たちに現れ、パウロにも現れました(15:8)。キリストにあっては、神との関係を妨げるものは何もありません。
この、神とわたくしたちとの差し向かいの関係が、死を超えて与えられています(1:9)。「神の前にある私」という交わりは誰にも脅かされることなく、誰のも脅かしてならぬもの(30)としてキリストによりもたらされました。今やこの神との交わりに与る礼拝が、わたくしたちに届けられてきました。そして、わたくしたちがどこにあっても、わたくしたちはなお神の顔の前にあり、何をするにしても、キリストにあって神の栄光を現す器として用いられるのです(31)。
誰でも、造り主と造られた私とのこの差し向かいの関係がまことにそうあることを必要としています。神は寄る辺なき者のようにしてわたくしたちを死にゆくまま捨て置くのを望んでいるわけではありません。天地の造り主なる神さまは、死を打ち破って、この不変の交わりを宣言してくださいました。今や神さまはこの神の御名を崇める礼拝をわたくしたちに与え、この礼拝をもって、一人、また一人と、救いに与らせてくださるのです。