わたくしたちは、果たせるなら自分の責任を自分で果たそうとします。ただ、死にゆく自分の責任を自分では果たすことは、願ってもかないません。そこで、死にゆくこの自分の眼差しを、しっかりと受け止めてくれる相手が、わたくしたちには必要です。死すべきこの自分に対し、死をこえて「お前はわたしのもの、お前は良い」と言ってもらえる相手を、求めるのです。
造り主なる神こそが、死すべきこの身を受け入れ、神のものとしてくださいます。神はこのため、御子イエスの命を十字架に差し出しました。十字架で献げられた命、これがわたくしたちを買い取る身代金となりました。パウロは言います。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです(6:19)。」
人間の目には、何ら肯定しようのない死を、主イエスはその身に受けました。しかしこの主イエスを、神は復活させ、主イエスは復活させられたご自身を弟子たちに現しました。神はここに、人間には肯定し得ない死に対し、造り主としてその責任を負い切ることを宣言してくださったのです。今や神は主イエスの復活を告げ知らせ、この宣言をわたくしたちに届けます。神は「お前はわたしのものだ」と宣言し、死すべきこのわたくしたちに対し眼差しを注ぎ続けておられるのです。
復活の主イエス・キリストが、わたくしたちの死に勝利し、死の向こうから、この神の宣言を告げておられます。この主に招かれ、わたくしたちは洗礼を受け、この神の宣言をわたくしたちの身にしるし付けていただきます。わたくしたちは主の食卓(聖餐)においてキリストの体と血に与り、わたくしたちが神のものであるということを繰り返し確認します。共にこの神との交わりに加えられ、神との間に朽ちぬ命をいただくのです。