2018年4月22日日曜日

「ただ一つの慰めにあずかる」コリントの信徒への手紙一 10:14-22

わたくしたちは、たせるなら自分じぶん責任せきにん自分じぶんたそうとします。ただ、にゆく自分じぶん責任せきにん自分じぶんではたすことは、ねがってもかないません。そこで、にゆくこの自分じぶん眼差まなざしを、しっかりとめてくれる相手あいてが、わたくしたちには必要ひつようです。すべきこの自分じぶんたいし、をこえて「おまえはわたしのもの、おまえい」とってもらえる相手あいてを、もとめるのです。
つくぬしなるかみこそが、すべきこのれ、かみのものとしてくださいます。かみはこのため、御子みこイエスのいのちじゅう字架じかしました。十字架じゅうじかささげられたいのち、これがわたくしたちを身代金みのしろきんとなりました。パウロはいます。「らないのですか。あなたがたのからだは、かみからいただいたせいれい宿やどってくださる神殿しんでんであり、あなたがたはもはや自分じぶん自身じしんのものではないのです。あなたがたは、代価だいかはらってられたのです(6:19)。」
人間にんげんには、なん肯定こうていしようのないを、しゅイエスはそのけました。しかしこのしゅイエスを、かみ復活ふっかつさせ、しゅイエスは復活ふっかつさせられたごしん弟子でしたちにあらわしました。かみはここに、人間にんげんには肯定こうていないたいし、つくぬしとしてその責任せきにんることを宣言せんげんしてくださったのです。いまかみしゅイエスの復活ふっかつらせ、この宣言せんげんをわたくしたちにとどけます。かみは「おまえはわたしのものだ」と宣言せんげんし、すべきこのわたくしたちにたいまなしをそそつづけておられるのです。
復活ふっかつしゅイエス・キリストが、わたくしたちの勝利しょうりし、こうから、このかみ宣言せんげんげておられます。このしゅまねかれ、わたくしたちは洗礼せんれいけ、このかみ宣言せんげんをわたくしたちのにしるしけていただきます。わたくしたちはしゅ食卓しょくたく聖餐せいさん)においてキリストのからだあずかり、わたくしたちがかみのものであるということをかえ確認かくにんします。ともにこのかみとのまじわりにくわえられ、かみとのあいだちぬいのちをいただくのです。