「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。なんとも頼もしい、顔を上げさせられる励ましです。試練に遭い、倒れても、神は突破する道を開いてくださる。
パウロはこの励ましを、偶像礼拝に対する警告の中で語ります。パウロは神が、出エジプトに始まる荒野の四十年の中で旧約の民を導いたこと、民に天からマナを与え、岩から水を出して養ったことを指摘します。一方、民が「果たして、主は我々の間におられるのかどうか(出17:7)」と主を試したこと、「パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます(民21:5)」と主に不平を言ったこと、金の子牛を神として崇めたこと(出32)を挙げます。
パウロがここで見る試練は「時の終わり」に直面する中でのものです。わたくしたちも、追われていた学業や仕事、子育てに終わりを迎え、これからの道をどうすればよいのか足踏みすることがあります。自分が何者で何の価値があるのか、向き合わされることがあります。人生の終わりを前にし、試練を与えられます。そこでなお自分に価値を見出してくれる方、自分を愛してくれる神を求めます。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」わたくしたちも求めるのです。
「キリストを試みないようにしよう」とパウロは勧めます。それはこれまで自分の力で立ってきたと思っていても、キリストこそがこの身を立たせてきたからです。この養いに目覚めるようパウロは求めます。人間が造った偶像によってわたくしたちが命を得るでしょうか。キリストを死から復活させた神こそがわたくしたちの造り主として、死を越える命の道を与えてくださいます。そのための礼拝へと主は招いておられます。