2018年4月15日日曜日

「神は真実な方です」コリントの信徒への手紙一10:1-14

「あなたがたをおそった試練しれんで、人間にんげんとしてえられないようなものはなかったはずです。かみ真実しんじつかたです。あなたがたをえられないようなれんわせることはなさらず、試練しれんともに、それに耐えられるよう、のがれるみちをもそなえていてくださいます」。なんともたのもしい、かおげさせられるはげましです。試練しれんい、たおれても、かみ突破とっぱするみちひらいてくださる。
パウロはこのはげましを、偶像ぐうぞう礼拝れいはいたいする警告けいこくなかかたります。パウロはかみが、しゅつエジプトにはじまる荒野あらのの四十ねんなか旧約きゅうやくたみみちびいたこと、たみてんからマナをあたえ、いわからみずしてやしなったことを指摘してきします。一方いっぽうたみが「たして、しゅ我々われわれあいだにおられるのかどうか(出17:7)」としゅためしたこと、「パンもみずもなく、こんな粗末そまつ食物しょくもつでは、気力きりょくもうせてしまいます(民21:5)」としゅ不平ふへいったこと、きん子牛こうしかみとしてあがめたこと(出32)をげます。
パウロがここで試練しれんは「ときわり」に直面ちょくめんするなかでのものです。わたくしたちも、われていた学業がくぎょう仕事しごと子育こそだてにわりをむかえ、これからのみちをどうすればよいのか足踏あしぶみすることがあります。自分じぶん何者なにものなん価値かちがあるのか、わされることがあります。人生じんせいわりをまえにし、試練しれんあたえられます。そこでなお自分じぶん価値かち見出みいだしてくれるかた自分じぶんあいしてくれるかみもとめます。「たして、しゅ我々われわれあいだにおられるのかどうか」わたくしたちももとめるのです。
「キリストをこころみないようにしよう」とパウロはすすめます。それはこれまで自分じぶんちからってきたとおもっていても、キリストこそがこのたせてきたからです。このやしないに目覚めざめるようパウロはもとめます。人間にんげんつくった偶像ぐうぞうによってわたくしたちがいのちるでしょうか。キリストをから復活ふっかつさせたかみこそがわたくしたちのつくぬしとして、えるいのちみちあたえてくださいます。そのための礼拝れいはいへとしゅまねいておられます。