2018年4月1日日曜日

「復活の主がいつも共に」ルカによる福音書24:13-35

復活ふっかつしゅイエスは、エマオへとかう二人ふたり弟子でしともあゆんでいます。でも二人ふたりは、一緒いっしょあるはじめたこのかたしゅイエスだとわかかりません。たしかに二人ふたりは、しゅイエスが復活ふっかつさせられきておられる、と婦人ふじんたちがはかでみ使つかいからいたのをっています。また、やってたこのかたから、メシアはくるしみをけて栄光えいこうはいる、と聖書せいしょから説明せつめいされるのをきました。
ですが二人ふたりには、復活ふっかつしゅイエスがともにおられるとわかかりません。二人ふたりさえぎられていたのです。それでも、復活ふっかつしゅイエスはこの二人ふたり目指めざしていたところへとともあゆみます。そして目指めざむらしゅイエスをおめし、いえ一緒いっしょ食事しょくじをしたときのこと、しゅイエスはパンをり、賛美さんびいのりをとなえ、パンをいて二人ふたりわたします。すると二人ふたりひらかれ、このかた復活ふっかつしゅイエスだとわかかりました。ただそのとき、ともにおられるこのかたのお姿すがたえなくなりました。
復活ふっかつしゅイエスは、いつもわたくしたちとともにおられます。ですがわたくしたちのすくなからずさえぎられていて、しゅイエスのお姿すがたることができません。そのわたくしたちのあゆみは、この二人ふたり弟子でしたちのあゆみとかさなります。わたくしたちもまた礼拝れいはいにおいて、しゅイエスがわたくしたちのために十字架じゅうじかんだこと、この主イエスをかみさまが復活ふっかつさせたことをきます。ただそれがわたしあゆみとどうかかわるのか、このかたこそわたしすくぬしだ、とはわかからないことからあゆはじめます。
それでも復活ふっかつしゅイエスはわたくしたちのところへやってて、ともみちあゆんでおられます。そしてこのひらき、聖書せいしょ言葉ことばひらいてくださいます。たしかに一度いちどすべわかかるとはかぎりません。でもしゅは、わたくしたちのがすっかりひらかれ、めんかって復活ふっかつしゅイエスとおいするへと、いてくださいます。わたくしたちはこの目指めざし、てんにあるものにあるものも、とも復活ふっかつしゅをほめたたえるあゆみをかさねてまいるのです。