2018年5月6日日曜日

「多くの部分から成る体」コリントの信徒への手紙一 12:4-31a

わたくしたちのからだは、おおくの器官きかんによりひとつのからだとして構成こうせいされます。パウロはこれをれいに、キリストのきょうかいあらわします。「からだは、ひとつの部分ぶぶんではなく、多くの部分から成っています。あしが、「わたしはではないから、からだ一部いちぶではない」とったところで、からだ一部いちぶでなくなるでしょうか」。一人ひとりひとりがかみひつようとされた部分ぶぶんであり、一様いちようではありません。
一様いちようではない一人ひとりひとりが、洗礼せんれいけ、キリストというひとつのからだとなります。これが、教会きょうかいほか組織そしきことなるところです。わたくしたちは洗礼せんれいけることにおいて、「おまえはわたしのだ」とう、つくぬしなるかみさまの宣言せんげんきます。このおかた御子みこにそう宣言せんげんしたように(ルカ3:22)、このかたられるのをきます。そしてこの宣言せんげんが、えてこのれるつくぬしなるかみ言葉ことばであることを、かみ御子みこ死者ししゃなかから復活ふっかつさせてあかししてくださいました。
たしかにだれをも、このかみつくったのです。ですが、このつくぬしがわたしのにもってわたしをれること、わたしがけなきものとして全体ぜんたいえきとなることを、わたくしたちはどうやってり、「そうだ」とってもらえるでしょうか。つくぬしによってつくられた一人ひとりひとりであっても、かみのこの宣言せんげんくことなくしては、「そうだ」という保証ほしょうはなく、「そうではない」わたしへともどってしまいかねません。そこでは自分じぶん価値かちをもつくぬしをも見誤みあやまってしまいます。
かみはそのため、ご自身じしん宣言せんげんまえたみをおこしてくださいました。先達せんだつあゆみをもちい、ご自身じしんあかしする礼拝れいはいいまやわたくしたちにとどけておられます。かみはわたくしたちをキリストのからだ一部いちぶとし、教会きょうかいげます。一人ひとりひとりに与えられた賜物たまものは、全体ぜんたいえきとなるためもちいられ、これからかみ宣言せんげんあずかものたちにみのりをもたらすためもちいられます。こうしてしゅはわたくしたちを、ご自身じしんしたところにたせてくださるのです。