わたくしたちの体は、多くの器官により一つの体として構成されます。パウロはこれを例に、キリストの教会を言い表します。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか」。一人ひとりが神に必要とされた部分であり、一様ではありません。
一様ではない一人ひとりが、洗礼を受け、キリストという一つの体となります。これが、教会が他の組織と異なるところです。わたくしたちは洗礼を受けることにおいて、「お前はわたしの子だ」と言う、造り主なる神さまの宣言を聞きます。このお方が御子にそう宣言したように(ルカ3:22)、この身に語られるのを聞きます。そしてこの宣言が、死を超えてこの身を受け入れる造り主なる神の言葉であることを、神は御子を死者の中から復活させて証ししてくださいました。
たしかに誰をも、この神が造ったのです。ですが、この造り主がわたしの死にも打ち勝ってわたしを受け入れること、わたしが欠けなき者として全体の益となることを、わたくしたちはどうやって知り、「そうだ」と言ってもらえるでしょうか。造り主によって造られた一人ひとりであっても、神のこの宣言に聞くことなくしては、「そうだ」という保証はなく、「そうではない」わたしへと舞い戻ってしまいかねません。そこでは自分の価値をも造り主をも見誤ってしまいます。
神はそのため、ご自身の宣言の前に民をおこしてくださいました。先達の歩みを用い、ご自身を証しする礼拝を今やわたくしたちに届けておられます。神はわたくしたちをキリストの体の一部とし、教会を立て上げます。一人ひとりに与えられた賜物は、全体の益となるため用いられ、これから神の宣言に与る者たちに実りをもたらすため用いられます。こうして主はわたくしたちを、ご自身が召したところに立たせてくださるのです。