この詩編第九五篇はダビデによるものです。ダビデは少年時代、ペリシテ人ゴリアトと勇敢に戦った人物であり、後にイスラエルとユダの王になりました。しかし立派に見えるダビデも、神さまの前で罪を犯してしまいます。ダビデは部下である将軍ウリヤの妻バト・シェバを召入れます。ダビデは策を用いてウリヤを戦死させ、その妻を自分のものにしたのです。
このことは主の御心にかないませんでした。主は預言者ナタンをダビデのもとに遣わし、ダビデが主の意に背くことをしたと悟らせます。ダビデは主なる神さまの御前に、罪を赦してくださるよう願います。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください(詩51:12)」。このダビデの祈りは、主なる神さまが人の心を新たにしてくだされなければ、人の歩みは不確かであり神さまに背を向ける歩みへと陥るほかない、ということを表しています。
人の頑なな心は神さまが働かれる余地を与えません。しかし、打ち砕かれ、壊れ、ボロボロになっている心には神さまが働かれる余地が充分にあるのです。
主なる神さまはモーセを召し出し、イスラエルの民をエジプトから解放し、約束の地へと導くため荒れ野を通らせました。ところが、イスラエルの民は荒れ野のメリバ(争い)とマサ(試し)で飲む水がないことに腹を立て、「果たして、主は我々の間におられるのか」と文句を言います。
モーセと争い、主なる神さまを試した結果、イスラエルの民は四十年間、荒れ野を彷徨うことになります。
主なる神さまは人の罪を徹底して審く厳しさをもちながら、他方その罪を赦す神でもあります。主なる神さまは歴史を通して働き、主イエス・キリストを世にお与えくださいました。
主イエスは私たちの羊飼いであり、救いの岩です。私たちがこの世を生きていく中でどんな苦難があろうと、避けることのできる安全な場所です。