神さまは、お与えになる賜物を神の喜びのためにわたくしたちが用い、神のご支配が映し出される器として生かされるよう、求めます。パウロは言います。「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召された」。パウロはここで独身者と男女の結婚生活を挙げ、「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」と言います。
独身者も夫婦も、神がその賜物をお与えになり、神の喜びが現れるために召し出されます。神が呼び掛けておられるその声に応える生活が求められます。パウロは言います。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです(14:33)」。それぞれの歩みが神のご支配のもと、非のうちどころのない者とされる日へと向けられます。主イエスは、ご自身と父なる神さまとの交わりにわたくしたちを加え、神の喜びがこの身に全うする日をもたらしてくださいます(1:8)。
主イエスは「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言います(マタイ22:30)。その先取りとして、独身のパウロは「皆わたしのように独りでいるのがよい」と見ます。わたくしたちは洗礼によってキリストに結ばれ、キリストと一つとされた交わりに生かされます(12:13)。パウロは、独身者がこのキリストとの交わりにおいて父なる神と御子キリストとの交わりに加えられ、神のもの聖なる者とされてゆくことを勧めます。
パウロは一方、夫婦を神が結び合せ一体とし(マタイ19:15)、その家族もキリストに結ばれ聖なる者とされると見ます。信者でない夫(妻)は、信者である妻(夫)のゆえ聖なる者とされており、その子供も汚れているのではなく聖なる者である(16)。結婚は神のご支配が映し出される器として与えられ、結婚生活も汚れたものではない。むしろ夫婦は神の呼び掛けになお応え、その賜物を用い、愛し合い仕え合ってまいるのです。