2018年1月7日日曜日

「いつも新しい練り粉のままで」コリントの信徒への手紙一5:1-13

パウロは()います。「いつも(あたら)しい()()のままでいられるように、(ふる)いパン(だね)をきれいに()(のぞ)きなさい。(げん)に、あなたがたはパン(だね)(はい)っていない(もの)なのです。キリストが、わたしたちの過越(すぎこし)小羊(こひつじ)として(ほふ)られたからです」。(しゅ)(しゅつ)エジプトのため初子(ういご)を撃つ(わざわ)いをくだします。その()イスラエルは小羊(こひつじ)(ほふ)り、種入(たねい)れぬパンと(とも)()べます。その(いえ)(しゅ)()()します(出エジプト記12)。パウロは、この過越祭(すぎこしさい)(しゅ)晩餐(ばんさん)聖餐(せいさん))を(いわ)先取(さきど)りと()ます。
(しゅ)イエスが十字架(じゅうじか)()において、わたくしたちの過越(すぎこし)小羊(こひつじ)として(ほふ)られました。その(あかし)として、(かみ)さまはこのお(かた)死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。(しゅ)イエスはその()による洗礼(せんれい)(さず)かるわたくしたちの(あがな)いとなってくださり、この過越(すぎこし)小羊(こひつじ)によってわたくしたちを(しゅ)のものとして()(もど)してくださいます。わたくしたちはこれを(いわ)聖餐(せいさん)(あずか)るのです。
もし、パンだねはいっていないものなのなら、ふるいパンだねのぞ必要ひつようはありません。しかしパウロはコリントの教会きょうかいものたちに、のぞくようめいじます。それは、かれらがしゅイエスの十字じゅうじあずかり、パンだねはいっていないあたらしいとされていながらも、そうではないところにつからです。パウロは言います。「あなたがたがほこっているのは、よくない。わずかなパンだね全体ぜんたいふくらませることを、らないのですか」。ふるいパンだねのぞかねばなりません。
ただ、わたくしたちには自分(じぶん)(ふる)いパン(だね)()(のぞ)(ちから)はありません。同様(どうよう)に、(だれ)かに()(のぞ)くよう(もと)めてもその(ひと)にできもしない責任(せきにん)()()けるばかりです。ですからパウロはわたくしたちの過越(すぎこし)小羊(こひつじ)として(ほふ)られたキリストに(あずか)聖餐(せいさん)()(しめ)します。(しゅ)イエスこそが、わたくしたちを(あたら)しい()()とし純粋(じゅんすい)真実(しんじつ)のパンとしてくださいます。聖餐(せいさん)においてこの(めぐ)みに(あずか)り、()(かえ)()(かえ)(さいわ)いを共々(ともども)(いわ)うのです。