わたくしたちは、もし辱められているなら、その理由となることが改められるよう願います。自分に原因があるなら手を打とうとします。また、虐げられているなら、そこから解かれることを求めます。病にあれば心身の回復を、困難があればその解決を望みます。しかしパウロは言います。「おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」。
パウロがそう言うのは、たとえわたくしたちにこのような重荷があったとしても、キリストはわたくしたちを神の前に立ち上がらせるからです。もはやこれらによって妨げられはしない、神との交わりへと召し出したからです。むしろ、わたくしたちがこれらに心奪われ、これらの奴隷として囚われることがないよう、パウロは警鐘を鳴らします。キリストの名によって洗礼を受けた「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません」。
アダムは、
神が取って食べるなと命じた木から食べたことで、木の間に隠れ、主なる神の顔を避けました。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」。そのアダムを神は呼びます。「お前はどこにいるのか」(創世記3:9)。神は、「お前はここにいろ」とアダムをなお懐に迎えます。全て取り払われ、差し向かいで父なる神の眼差しを受け、「お前はここにいて良い」と呼び掛けられる。この声を全ての者が求めています。
この、私へと呼び掛け、御自身のもとに召し出す声を、神はキリストの復活により響かせてくださいました。父なる神は御自身との交わりが死においても妨げられはしないということを、証ししておられます。キリストのしもべとされたわたくしたちには、もはや何によっても妨げられぬ、父なる神の前にある歩みを与えられています。わたくしたちは、この声に聞くべく礼拝に迎えられ、キリストのもと、この神の前にとどまるのです。