2018年2月4日日曜日

「キリストのしもべとして」コリントの信徒への手紙一 7:17-24

わたくしたちは、もし(はずかし)められているなら、その理由(りゆう)となることが(あらた)められるよう(ねが)います。自分(じぶん)原因(げんいん)があるなら()()とうとします。また、(しいた)げられているなら、そこから()かれることを(もと)めます。(やまい)にあれば(しん)(しん)回復(かいふく)を、困難(こんなん)があればその解決(かいけつ)(のぞ)みます。しかしパウロは()います。「おのおの()されたときの身分(みぶん)のまま、(かみ)(まえ)にとどまっていなさい」。
パウロがそう()うのは、たとえわたくしたちにこのような重荷(おもに)があったとしても、キリストはわたくしたちを(かみ)(まえ)()()がらせるからです。もはやこれらによって(さまた)げられはしない、(かみ)との(まじ)わりへと()()したからです。むしろ、わたくしたちがこれらに(こころ)(うば)われ、これらの奴隷(どれい)として(とら)われることがないよう、パウロは(けい)(しょう)()らします。キリストの()によって洗礼(せんれい)()けた「あなたがたは、身代金(みのしろきん)(はら)って()()られたのです。(ひと)奴隷(どれい)となってはいけません」。
アダムは、かみってべるなとめいじたからべたことで、かくれ、しゅなるかみかおけました。「あなたの足音あしおとそのなかこえたので、おそろしくなり、かくれております。わたしははだかですから」。そのアダムをかみびます。「おまえはどこにいるのか」(創世記3:9)。かみは、「おまえはここにいろ」とアダムをなおふところむかえます。すべはらわれ、かいでちちなるかみ眼差まなざしをけ、「おまえはここにいてい」とけられる。このこえすべてのものもとめています。
この、(わたし)へと()()け、御自身(ごじしん)のもとに()()(こえ)を、(かみ)はキリストの復活(ふっかつ)により(ひび)かせてくださいました。(ちち)なる(かみ)御自身(ごじしん)との(まじ)わりが()においても(さまた)げられはしないということを、(あか)ししておられます。キリストのしもべとされたわたくしたちには、もはや(なに)によっても(さまた)げられぬ、(ちち)なる(かみ)(まえ)にある(あゆ)みを(あた)えられています。わたくしたちは、この(こえ)()くべく礼拝(れいはい)(むか)えられ、キリストのもと、この(かみ)(まえ)にとどまるのです。