創世記は神が天地万物を造った次第を辿ります。「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた(1:3,4)」。神は言葉をもって天地を造り、その一つひとつを見て「良し」とされます。六日目に神は、造ったもの全てを見渡します。創世記は、この眼差しに引き上げられて言います、「見よ、それは極めて良かった」(1:31)。
この「良かった」とご覧の神は、「人が独りでいるのは良くない(2:8)」と見ます。神は人アダムに合う助ける者を連れて来ます。ですが野の獣や空の鳥はそれに見合いません。神はアダムのあばら骨を一部抜き取り、それで女を造り上げます。神が女を連れて来ると、アダムは歓喜します。「これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」。創世記は「二人は一体となる(2:24)」と言い、神が結婚の秩序を「良し」とし、愛し合う二人の交わりを喜んでいる、と見ます。
この、
二人が一体となる交わりを、パウロはわたくしたちとキリストとの交わりとして見ます。つまり神は十字架で流されたキリストの血によってわたくしたちを買い取り、主であるキリストの僕として「良し」としてくださる、と言うのです。わたくしたちは復活させられた主の体の一部となり主と一つとされます。わたくしたちは、復活の主の体と固く結ばれるのであり、神は主を復活させたその力によって、わたくしたちをも復活させてくださいます(14)。
このご支配がわたくしたちの体に全うする日を待ち望む、礼拝の歩みを神はお与えになりました。パウロは「自分の体で神の栄光を現しなさい」と言います。主の体と一体とされ、主のものとしてこのお方との交わりに生かされる礼拝の歩みにこそ、わたくしたちを「良し」としておられる神の栄光が映し出されます。主であるキリストにお仕えし、愛と喜びに生かされる教会を、神はご自身の栄光のためお用いくださるのです。