パウロは言います。「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」。コリントの教会の者たちの間に、金銭に関わることで争いがありました。「自分が不当にも損をしている」と、この兄弟は教会外の世俗の裁判に訴え出ます。
わたくしたちは自分だけが損したままであることを望みません。他の人と同様に得をする権利があり、それが果たされるのが正しいと考えます。しかしパウロは「不義を甘んじて受け、むしろ奪われるままでいろ」と言います。それは「正しくない者が神の国を受け継げない」からです。こちらも、そして相手も、永遠の命を受け継ぐため、相手が犯した不義を赦す。赦さないでおくことは、赦せない過去の中に相手も自分も閉じ込めます。永遠の命を受け継げなくしてしまいます。
過去に自分を閉じ込め、滅びへと向かうのは惨めだと思います。ただ、わたくしたちにはこの自分の惨めさから抜け出す力がありません。ですからパウロはこの身へと差し伸べられたキリストの手を証しし、わたくしたちが受ける洗礼を指し示します。「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」。ただキリストによって永遠の命の交わりへと入れられるのです。
赦さないでおくという不義、これによる惨めな自分を、キリストがその十字架の血によって洗ってくださいます。そうする神の御心を、わたくしたちは洗礼を授かることでいただきます。このわたしがキリストによって洗われたこと、聖なる神のものとされたこと、よしとされたことを、繰り返し聖餐に与ることで確かにします。わたくしたちは礼拝により、すべて他のものから解かれ、永遠の命の交わりに入れられた喜びに生きるのです。