2018年1月14日日曜日

「不義を洗われる幸い」コリントの信徒への手紙一6:1-11

パウロは言(い)います。「そもそも、あなたがたの間(あいだ)に裁判(さいばん)ざたがあること自体(じたい)、既(すで)にあなたがたの負(ま)けです。なぜ、むしろ不義(ふぎ)を甘(あま)んじて受(う)けないのです。なぜ、むしろ奪(うば)われるままでいないのです」。コリントの教会(きょうかい)の者(もの)たちの間(あいだ)に、金銭(きんせん)に関(かか)わることで争(あらそ)いがありました。「自分(じぶん)が不当(ふとう)にも損(そん)をしている」と、この兄弟(きょうだい)は教会外(きょうかいがい)の世俗(せぞく)の裁判(さいばん)に訴(うった)え出(で)ます。
わたくしたちは自分(じぶん)だけが損(そん)したままであることを望(のぞ)みません。他(ほか)の人(ひと)と同様(どうよう)に得(とく)をする権利(けんり)があり、それが果(は)たされるのが正(ただ)しいと考(かんが)えます。しかしパウロは「不義(ふぎ)を甘(あま)んじて受(う)け、むしろ奪(うば)われるままでいろ」と言(い)います。それは「正(ただ)しくない者(もの)が神(かみ)の国(くに)を受(う)け継(つ)げない」からです。こちらも、そして相手(あいて)も、永遠(えいえん)の命(いのち)を受(う)け継(つ)ぐため、相手(あいて)が犯(おか)した不義(ふぎ)を赦(ゆる)す。赦(ゆる)さないでおくことは、赦(ゆる)せない過去(かこ)の中(なか)に相手(あいて)も自分(じぶん)も閉(と)じ込(こ)めます。永遠(えいえん)の命(いのち)を受(う)け継(つ)げなくしてしまいます。
過去(かこ)に自分(じぶん)を閉(と)じ込(こ)め、滅(ほろ)びへと向(む)かうのは惨(みじ)めだと思(おも)います。ただ、わたくしたちにはこの自分(じぶん)の惨(みじ)めさから抜(ぬ)け出(だ)す力(ちから)がありません。ですからパウロはこの身(み)へと差(さ)し伸(の)べられたキリストの手(て)を証(あか)しし、わたくしたちが受(う)ける洗礼(せんれい)を指(さ)し示(しめ)します。「あなたがたの中(なか)にはそのような者(もの)もいました。しかし、主(しゅ)イエス・キリストの名(な)とわたしたちの神(かみ)の霊(れい)によって洗(あら)われ、聖(せい)なる者(もの)とされ、義(ぎ)とされています」。ただキリストによって永遠(えいえん)の命(いのち)の交(まじ)わりへと入(い)れられるのです。
赦(ゆる)さないでおくという不義(ふぎ)、これによる惨(みじ)めな自分(じぶん)を、キリストがその十(じゅう)字架(じか)の血(ち)によって洗(あら)ってくださいます。そうする神(かみ)の御心(みこころ)を、わたくしたちは洗礼(せんれい)を授(さず)かることでいただきます。このわたしがキリストによって洗(あら)われたこと、聖(せい)なる神(かみ)のものとされたこと、よしとされたことを、繰(く)り返(かえ)し聖餐(せいさん)に与(あずか)ることで確(たし)かにします。わたくしたちは礼拝(れいはい)により、すべて他(ほか)のものから解(と)かれ、永遠(えいえん)の命(いのち)の交(まじ)わりに入(い)れられた喜(よろこ)びに生(い)きるのです。