主イエスがガリラヤで活動していた時のことです。弟子たちの間で、誰が一番偉いかと議論が起こりました。その心の内を見抜いた主イエスは、一人の子供の手を取り立たせて言いました。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」。弟子たちは意表を突かれます。
パウロはまるでこれを再現するかのようです。コリントでは「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」と争いがありました。その彼らへとパウロは手紙を送ります。パウロこそ、コリントにキリストという土台を据えました。この土台を無視して他の土台を据えることはできません。パウロは彼らに勧めます。「わたしに倣う者になりなさい」。それはなんとも威厳ある父親のようです。しかし続けて言うのです。「テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです」。
テモテはこの手紙をパウロから託され一人コリントへとやって来ました。そして主イエスが手を取って立たせた子供のように、コリントの者たちの中に立たされます。パウロは、テモテが主にあって忠実であり、キリストに結ばれたパウロの生き方を彼らに思い起こさせる、と言います。テモテは、訳も分からずにコリントの者たちの間に立たされましたが、キリストに結ばれていることに信頼します。キリストがこの身になお道を備え、手を引いて最後まで支えてくださる。
それはコリントの者たちもそうです。彼らもキリストに結ばれているのです。パウロに倣い、キリストに倣うこと、それは相手に勝る権威を身に帯びるようなものではありません。むしろ「この自分にも神は真実である」「なおもキリストは手の中にわたしを置いてくださる」という信頼です。どこまでもわたくしたちを愛する神がおられます。たとえ世にあって侮辱され、迫害され、ののしられても、それでも、神の真実は変わることがないのです。