2017年12月3日日曜日

「神の愛する子として」コリントの信徒への手紙一4:14-21

(しゅ)イエスがガリラヤで活動(かつどう)していた(とき)のことです。弟子(でし)たちの(あいだ)で、(だれ)一番(いちばん)(えら)いかと議論(ぎろん)()こりました。その(こころ)(うち)見抜(みぬ)いた(しゅ)イエスは、一人(ひとり)子供(こども)()()()たせて()いました。「わたしの()のためにこの()(ども)()()れる(もの)は、わたしを()()れるのである」「あなたがた(みな)(なか)(もっと)(ちい)さい(もの)こそ、(もっと)(えら)(もの)である」。弟子(でし)たちは意表(いひょう)()かれます。
パウロはまるでこれを再現(さいげん)するかのようです。コリントでは「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」と(あらそ)いがありました。その(かれ)らへとパウロは手紙(てがみ)(おく)ります。パウロこそ、コリントにキリストという土台(どだい)()えました。この土台(どだい)無視(むし)して(ほか)土台(どだい)()えることはできません。パウロは(かれ)らに(すす)めます。「わたしに(なら)(もの)になりなさい」。それはなんとも威厳(いげん)ある父親(ちちおや)のようです。しかし(つづ)けて()うのです。「テモテをそちらに(つか)わしたのは、このことのためです」。
テモテはこの手紙てがみをパウロからたくされ一人ひとりコリントへとやってました。そしてしゅイエスがってたせた子供こどものように、コリントのものたちのなかたされます。パウロは、テモテがしゅにあって忠実ちゅうじつであり、キリストにむすばれたパウロのかたかれらにおもこさせる、といます。テモテは、わけからずにコリントのものたちのあいだたされましたが、キリストにむすばれていることに信頼しんらいします。キリストがこのになおみちそなえ、いて最後さいごまでささえてくださる。
それはコリントの(もの)たちもそうです。(かれ)らもキリストに(むす)ばれているのです。パウロに(なら)い、キリストに(なら)うこと、それは相手(あいて)(まさ)権威(けんい)()()びるようなものではありません。むしろ「この自分(じぶん)にも(かみ)真実(しんじつ)である」「なおもキリストは()(なか)にわたしを()いてくださる」という信頼(しんらい)です。どこまでもわたくしたちを(あい)する(かみ)がおられます。たとえ()にあって侮辱(ぶじょく)され、迫害(はくがい)され、ののしられても、それでも、(かみ)真実(しんじつ)()わることがないのです。