「今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています」。そうパウロは、使徒である自身を表し、キリストの教会の歩みを見ます。
もしそうであるなら、わたくしたちは使徒のようになりたいと思いませんし、キリストを信じてそのような憂き目にあおうとは願わないでありましょう。信じるゆえ惨めな思いをするのなら、自分にキリストなど必要ありません。それよりも、自分の主義主張に適う者同士で寄り合い、威勢の良いことを言って好き勝手出来る範囲を広げられる方が良いように見えます。このように見るコリントの者たちに、しかしパウロは、キリストを救い主として改めていただくよう求めます。
神さまは十字架で死んだキリストによってわたくしたちを救おうとしました。それは人の目に愚かと見えます。ただ、わたくしたちは自分の限界を自力で越えられません。死を前に自分を欺く他ないほど、わたくしたちの知恵も力も限りがあります。そしてわたくしたちは自分の知恵においては、造り主の我々への思いへと至りません。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された(2:9)」のです。
神さまは、愚かにも十字架で死んだキリストを、復活させました。そして世の屑、すべてのものの滓とされたこの身をも、復活させてくださいます(6:14)。神はこの力によって教会を興しました。キリストをいただいた民・教会は、破れを抱えながらも、この希望へと向かって常に新たに立ち上がらされてきたのです。わたくしたちはこの礼拝の歩みを、キリストの勝利が全てにおいて全うされる日に至るまで進めて参ります。