「わたしが神を信じる」ということは、換言すれば、わたしが神を信じるという道を神が与えたと認め、この道をわたしに与えた神の言葉に繰り返し聴きつつ、この身に始まったキリストのご支配が全うされる日を待ち望むことです(道・真理・命、ヨハネ14:6)。わたしが神を信じなければならないその理由は、この道をお与えになった神から聴かねばなりません。
マリアは、少しも望んだことではありませんでしたが、自分が身ごもって救い主イエス・キリストを産む、とみ使いから聞きます。神さまはマリアに神の子イエスを宿します。宿した母としての歩みが始まります。なぜ自分に宿されたのか。その理由は、ヨセフに聞いても父母に聞いても確かではありません。宿らせた神から聴かねばなりません。「お言葉どおり、この身に成りますように」と口にしたマリアは、繰り返し、この身に神が語った言葉に耳を傾けます。
語られた神の言葉に聴く歩みは、神の子イエスを産んだ後も続き、事あるごとに問い直させられます。この息子が十字架で死なねばならなかった時も、復活させられ天に上げられた時も。そして、聖霊が降り、いと高き方の力に覆われた時(24:49、使徒言行録2:4)、ようやく知りました。この子が神の子であり主メシア・キリストであると。何かマリアだけが弟子たちより先に知ったわけではありません。どの時も、神が語った言葉から改めて受け取ることを求められました。
神さまはわたくしたちに、神を信じる道を与え、この道を主イエス・キリストが共に歩んでくださいます。神さまが与える道は、死を越えてこの身を生かす永遠の命の道です。復活の主イエス・キリストがわたくしたちに伴ってくださり、そのご支配をこの身に全うしてくださいます。神さまは十字架で死んだ主イエスを復活させ、この身に成る神の言葉を語ってくださいました。この言葉に繰り返し聴く礼拝こそ、わたくしたちの土台です。