主イエスはヨルダン川上流のガリラヤ地方で活動しておられましたが、そこから一路、都エルサレムへと向かいます。主イエスがエルサレムへと向かうのは十字架で死を遂げるためです(9:22)。その道すがらのこと、主イエスは聖霊によって喜びにあふれ、天の父なる神さまを賛美します。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」(21)。
天地の主である神さまは、お造りになった万物をご覧になり「極めて良かった」と目を注いでおられます(創世記1:31)。この眼差しがわたくしたち一人ひとりに注がれています。神さまはわたくしたちを良いものとしてお造りになりました。たしかに、地上の歩みにおいてわたくしたちは自らの欠けや至らなさ、悲しみや苦しみを負います。これらに打ちのめされそうになることがあります。ときにわたくしたちは悲しみや苦しみの中で生涯を終えることさえあります。
それでも
天の父なる神さまは、わたくしたちを「良かった」と見ています。ならば神さまはわたくしたちの悲しみや苦しみを知らないのでしょうか。そうではありません。むしろそこにこそ神さまはご自身の喜びを満たしてくださいます。最後の最後、神さまはわたくしたちをお造りになった喜びを、わたくしたちに全うしてくださるのです。わたくしたちが悲しみで終わってしまったように見えても、父なる神さまはご自身の喜びを満たす日を迎えさせてくださいます。
神さまは、ご自身がそのようにわたくしたち一人ひとりを愛し、この身を救う神であると私に示すため、十字架で死んだ御子イエスを死から復活させました。主イエスが十字架につけられる時、多くの者が嘆き悲しみました(23:27)。しかし死んだこの方がそれで終わるのではなかったのです。神さまはこの御子の復活を告げる礼拝により、わたくしたちを救うという、ご自身の喜びにわたくしたちをも与らせてくださいます。