2017年11月12日日曜日

「ここにしかない慰め」コリントの信徒への手紙一3:18-23


パウロは、「だれも自分(じぶん)(あざむ)いてはなりません」と()います。わたくしたちは、(いつわ)りと()りつつそれをわざわざ(しん)じ、それに自分(じぶん)()けようとは(おも)いません。ただ、空虚(くうきょ)()りつつも(ほか)(なぐさ)めを見出(みいだ)せないなら、たとえその言葉(ことば)根拠(こんきょ)がなくとも、()りすがるということがあります。わたくしたちも(みずか)らの()(まえ)に、自分(じぶん)(あざむ)くということがあるかもしれません。
そのわたくしたちに、「自分(じぶん)(あざむ)くな」とのパウロの言葉(ことば)(きび)しく()こえます。平時(へいじ)でもわたくしたちは、「これだけのことをしてきたのだから」と(なん)かしら過去(かこ)実績(じっせき)によって将来(しょうらい)()めつけることがあります。また一方(いっぽう)で、「もう、どうせ駄目(だめ)だ」と絶望(ぜつぼう)することがあります。「これだけしかできなかった」、「あんなことをしてしまった」、と将来(しょうらい)()ざす(おも)いの(うち)にふさぎ()んでしまいます。そのどちらについてもパウロは「あなたは自分(じぶん)(あざむ)いてはならない」と警告(けいこく)します。
そうパウロが()うのは、この()がそうではない事実(じじつ)(うち)()かれているからです。「すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界(せかい)(せい)()も、今起(いまお)こっていることも将来(しょうらい)()こることも。一切(いっさい)はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは(かみ)のものなのです」。(しゅ)イエス・キリストこそ、わたくしたちを()から()()がらせることができるのであり、この(かた)においてわたくしたちは一切(いっさい)()たされ、(いま)不足(ふそく)()えたとしても十全(じゅうぜん)とされるのです。
この(いしずえ)である(しゅ)イエス・キリストを、(かみ)さまは()から復活(ふっかつ)させ(あらわ)してくださいました。キリストはこの(いしずえ)(うえ)にわたくしたちを()たせてくださいます。わたくしたちはこのキリストのものです。このお(かた)はわたくしたちを(まね)き、(いま)この()()たされる(いしずえ)を、礼拝(れいはい)によって(ふか)めて()()めさせてくださいます。キリストが万事(ばんじ)(えき)としてくださるので、わたくしたちは(みずか)らの()(せい)も、過去(かこ)将来(しょうらい)も、この(かた)()(すべ)てお(ゆだ)ねできるのです。