2017年11月19日日曜日

「神に祝福されて生きる」コリントの信徒への手紙一4:1-5

パウロは()います、「わたしにとっては、あなたがたから(さば)かれようと、人間(にんげん)法廷(ほうてい)(さば)かれようと、(すこ)しも(もん)(だい)ではありません。わたしは、自分(じぶん)自分(じぶん)(さば)くことすらしません」と。わたくしたちはおよそ、(まわ)りの(ひと)から()()みして()られます。その評価(ひょうか)自分(じぶん)左右(さゆう)するかのように(おも)います。ですがパウロは、そのような(ひと)()が「(すこ)しも問題(もんだい)ではない」と()います。
それは、この自分(じぶん)をまことに()てくれている(かみ)がおられるからです。パウロはこの(かみ)眼差(まなざ)しに信頼(しんらい)し、これこそ大事(だいじ)()ます。人間(にんげん)(さば)きは(かみ)による(さば)きを左右(さゆう)しません。それは自分(じぶん)自分(じぶん)(さば)いてもそうです。たとえ自分(じぶん)(さば)いても、わたくしたちは自分(じぶん)(すく)うことはできません。「あれで()かったのだ」と自分(じぶん)説得(せっとく)しても、(なに)かあればすぐに(もと)自分(じぶん)へと()(もど)ります。一方(いっぽう)、「だからだめなのだ」と(さば)いても、それによって自分(じぶん)将来(しょうらい)(ひら)かれるわけでもありません。
パウロは、「わたしをさばくのはしゅなのです」とつべきところをしめし、しんじつをもってこのすくう、かみへの信頼しんらいあらわします。天地てんちつくぬしなるかみさまはご自身 じしん栄光えいこうをわたくしたちにあたえようと、はじまるまえにおさだめになりました(2:7)。このめられた計画けいかくかみさまはしゅイエス・キリストによりあきらかにしました。かみさまは十字架じゅうじかんだこの御子みこ復活ふっかつさせ、によってもえないちちとのまじわりをあらわにし、このまじわりへとわたくしたちをまねれます(1:9)。
(しゅ)イエス・キリストがこの(かみ)計画(けいかく)をわたくしたちの()(まっと)うしてくださいます。この(かみ)真実(しんじつ)(たい)し、忠実(ちゅうじつ)であることが(さいわ)いです。(かみ)がわたくしたちを祝福(しゅくふく)しているのに、そうではないと自分(じぶん)(さば)必要(ひつよう)はありません。むしろ、やがて(しゅ)()られるときに、(かみ)からおほめにあずかると信頼(しんらい)し、このお(かた)(みずか)らをなお(あけ)(わた)決断(けつだん)(たい)(せつ)です。(かみ)眼差(まなざ)しのもと、(かみ)との(まじ)わりを(たし)かにされてこそ、わたくしたちも(あら)たに()かされるからです。