パウロは言います、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と。わたくしたちはおよそ、周りの人から値踏みして見られます。その評価が自分を左右するかのように思います。ですがパウロは、そのような人の目が「少しも問題ではない」と言います。
それは、この自分をまことに見てくれている神がおられるからです。パウロはこの神の眼差しに信頼し、これこそ大事と見ます。人間の裁きは神による裁きを左右しません。それは自分が自分を裁いてもそうです。たとえ自分を裁いても、わたくしたちは自分を救うことはできません。「あれで良かったのだ」と自分を説得しても、何かあればすぐに元の自分へと舞い戻ります。一方、「だからだめなのだ」と裁いても、それによって自分の将来が開かれるわけでもありません。
パウロは、「わたしを
裁くのは主なのです」と立つべきところを示し、真実をもってこの身を救う、神への信頼を表します。天地の造り主なる神さまはご自身の栄光をわたくしたちに与えようと、世の始まる前にお定めになりました(2:7)。この秘められた計画を神さまは主イエス・キリストにより明らかにしました。神さまは十字架で死んだこの御子を復活させ、死によっても絶えない父と子との交わりを露わにし、この交わりへとわたくしたちを招き入れます(1:9)。
主イエス・キリストがこの神の計画をわたくしたちの身に全うしてくださいます。この神の真実に対し、忠実であることが幸いです。神がわたくしたちを祝福しているのに、そうではないと自分で裁く必要はありません。むしろ、やがて主が来られるときに、神からおほめにあずかると信頼し、このお方に自らをなお明け渡す決断が大切です。神の眼差しのもと、神との交わりを確かにされてこそ、わたくしたちも新たに生かされるからです。