主イエスがお生まれになる前、母マリアが主イエスを身ごもった時、み使いはマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1:28)。み使いは、神さまの喜びがマリアに始められていることを告げます。神さまは、生まれてくる御子によって一人ひとりを聖なるものとなさいます。神さまはそのことを喜んでおられるのです。
パウロは、この喜びに仕えるため、コリントに主イエス・キリストを宣べ伝えました。コリントの教会はただ神の恵みによって、キリストという土台を据えられ、ここに建て上げられる歩みを始めました。コリントの教会は神の喜びによって始められ、神の喜びを土台として建て上げられて行くのです。そこではもはや、「わたしはパウロにつく」「わたしはアボロに」といった別の土台の上に立つものではありません。神の喜びのもと神の霊が住む神殿とされるのです。
神さまのこの喜びが、キリストの教会を通してわたくしたち一人ひとりに差し出されています。わたくしたちは、洗礼を受けることにより、主イエス・キリストを土台として据えられます。神さまの喜びを土台とし、神さまのものとして聖なるものとして建て上げられてゆきます。たとえ、洗礼を受けた時にその喜びをまだ知らなかったとしても、天においては神の喜びが響いています(ルカ15:10)。主イエスは、この喜びがこの身に全うする日を、もたらしてくださいます。
パウロは、かの日には「その土台の上に建てた仕事が残る」と言います。神は洗礼により、もはや取り消すことのない、火を通っても滅びぬ喜びをわたくしたちに据えます。この土台の上に、死をも超えてわたくしたちを立ち上がらすことを、神さまは十字架で死んだ主イエスを死から復活させて明らかにしました。この喜びを土台とする家・教会に、具体的な人物を通して、神はわたくしたちを招き、共に喜びに与らせてくださいます。