子どもは「見て、見て」と自分がすることを大人が見てくれるようせがみ、自分が愛されているのを確かめます。わたくしたちは自分が持つ言葉の広がりの中を生きますが、その外にある言葉から自分が認められ、受け入れられたいと願います。愛するというのもそうです。自分の外にある、愛してくれる者の言葉へと自分が引き出され、わたくしたちは外にある言葉との交わりに新たに生かされます。
わたくしたちの言葉には限りがあります。言葉の限界はそのまま、思いや考えの限界となります。自分が何者であるかについてもそうです。わたくしたちは自分が何たるか、自分が表現できる以上には知りません。たしかに、言葉の積み重ねによって、言葉以上の何かを表現し、受け取ることがあります。ただそれにも限りがあります。わたくしたちは自分の支配者でありながらも、限られた自分しか知り得ず、理解し得ないでいるのです。
パウロは、この
世の知恵について「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」と言います。わたくしたちもそうでしょう。わたくしたちは自らの滅びを越える言葉を持ちません。限りあるこの自分を自分では越えられない。わたくしたちは死すべきこの身へと、神の言葉が与えられるよう求めます。造り主がこのわたしを愛する言葉を、聞きたいのです。そしてまさにこのわたしが聞くべく、神は十字架で死んだ御子イエスを復活させ、世の外から声を響かせてくださいました。
パウロはこの言葉を、「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたもの」と言います。変わることのない神の言葉が、届けられました。「わたしの子よ」と死すべきこの身に語りかける造り主がおられます。この神の御声により、わたくしたちは死を越えて愛され、天の父との交わりに生かされます。わたくしたちは礼拝毎にこの言葉を告げられ、外へと引き出され、父なる神との交わりに新たに生かされるのです。