わたくしたちは、「神を信じる」と言う場合には何か、自分の努力で到達せねばならぬ、そうすることを求められる課題のようなものと受け止めるかもしれません。ですが聖書がわたくしたちに神を信じるよう求めるのは、神がこのわたしを愛し、呼びかけているからです。わたくしたちを滅びから救う神がおられ、この神がわたくしたちに呼びかけておられます。
神さまが、「わたしの子よ」とわたしを呼びます。この呼び声によって神の顔の前に立つのが幸いです。礼拝はこの希望へとわたくしたちを導きます。もし、何かこちらの努力によって信じるなら、それは生きながらえる上で歩みを整えるかもしれませんが、続けるにも限りがあります。愛するものそうです。自らの都合で愛したり愛さなかったりするなら、そこでは自分の声に従っているに過ぎません。まして死んだなら、努力して信じたり愛したりする力もありません。
けれども、たとえ自分の声を失っても、なおわたくしたちを立ち上がらす声が響きました。それが、主イエス・キリストの復活の出来事です。死んだ者にさえ、しかも神に呪われて死んだ者にさえ、天の父なる神さまは呼び掛けてくださり、造り主なるご自身の、命を得させる神の声を響かせてくださいました(ガラテヤ3:13、申命記21:23)。今や父なる神さまは、御子イエス・キリストの十字架の死を宣べ伝え、御子を復活させたこの声をわたくしたちへと届けます。
そしてこの声を、神さまはわたくしたちの死を超えて届けてくださいます。わたくしたちの顔の前にあるのは、滅びの計画ではありません。救いの計画が前を照らしています。神さまはこの交わりをわたくしたちの与るべき希望としてくださいました。神さまこそがご自身の力によってわたくしたちを信じることへと立ち上がらせ、「わたしの子よ」と呼びかけるご自身との交わりに入れてくださいます。わたくしたちはこの声に従うのです。