パウロは確かめるようにして言います。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」。パウロは、神がわたくしたちを愛し、その溢れ出る思いの中へとわたくしたちが入れられてしまった事実へと目を向けさせます。
神さまがわたくしたちを愛するのは、何かこちらに知恵や能力やよい家柄があるからではありません。神さまの前に立つにふさわしいと見える顔を持つから受け入れてくれるのではないのです。たしかに、人間同士ではふさわしい格好や言葉や振る舞いが求められます。でも神さまとの間には、何らそのような顔を作る必要はありません。むしろキリストがわたくしたちの顔となって、何一つ持たないこのわたしを神さまの前に立ち上がらせてくださいます。
はじめの
人アダムは、食べるなと命じられていた木から実を取って食べた時、目が開け、自分が裸であると知りました。いちじくの葉を綴り合せ腰を覆い、人目を避けます。主なる神の歩く音が聞こえると木の間に身を隠し、主なる神の顔を避けます。そうやって神さまとの間に隔てを設け、自分をその陰に隠してしまう。そのアダムを主なる神は呼びます。「お前はどこにいるのか」(創世記3:9)。神さまは何一つ持たないアダムとの交わりを求め、アダムを召し出します。
主なる神はアダムに皮の衣を作って着せました。アダムに必要なら、神さまがそれを与えてくださいます。そしてわたくしたちにはキリストという衣を与えてくださいます。キリストは何一つ持たないわたくしたちを、ご自身の顔をもって神の顔の前に立ち上がらせてくださいます。この神との交わりが、すべてを超えて与えられています。神はキリストを死から復活させ、死さえも超えて結ばれる神の愛を明らかにしてくださいました。