ユダは、主イエスを売り渡した代金である銀貨三十枚を、祭司長たち民の長老たちに返そうとします。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」。ユダはこうして主イエスを取り戻し、損なった関係を償おうと考えます。また自分をも罪の虜から放つことになると思いました。しかし彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と退けます。
ユダは神殿に対しても、銀貨三十枚を差し出します。ただ、こののちユダが首をつったということから伺い知れるのは、それらによってユダが罪から救われることはなかったということです。ユダもまた、十字架で死んだ主イエスによって、神さまの前に立たされる必要がありました。ユダを、犯した罪から救うことができるとすれば、それは最高法院ではなく、神殿でもなく、十字架で死んで死から復活させられた主イエス・キリストに他ならなかったのです。
わたくしたちが自分に絶望するのは、その先に道がないからです。ならばその事態の解決は、自分ではできません。向こうから、こちらへやってきてもらう他ありません。その、死の向こうからわたくしたちへと届けられた道、わたくしたちを罪から救う神の言葉を、神は主イエスを死から復活させ、響かせてくださいました。
今や主イエスの十字架は、自分で償う責任を自分が負い切らねばならないという、律法の終わりを示します。主イエスが、わたくしたちの抱える罪も呪いも死も、十字架において全て負い切ってくださいました。損なった関係の代償を果たすという責任を主が負い切ってくださいます。この方が、わたくしたちのなすべき償いを全て果たしたのであり、この主に全てこの身をお委ねすることのできる道を、神はわたくしたちに備えたのです。