2017年7月2日日曜日

「損なった関係の代償」マタイによる福音書27:1-10

ユダは、(しゅ)イエスを()(わた)した代金(だいきん)である銀貨(ぎんか)三十(さんじゅう)(まい)を、祭司長(さいしちょう)たち(たみ)長老(ちょうろう)たちに(かえ)そうとします。「わたしは(つみ)のない(ひと)()()(わた)し、(つみ)(おか)しました」。ユダはこうして(しゅ)イエスを()(もど)し、(そこ)なった関係(かんけい)(つぐな)おうと(かんが)えます。また自分(じぶん)をも(つみ)(とりこ)から(はな)つことになると(おも)いました。しかし(かれ)らは「我々(われわれ)()ったことではない。お(まえ)問題(もんだい)だ」と退(しりぞ)けます。
ユダは神殿(しんでん)(たい)しても、銀貨(ぎんか)三十(さんじゅう)(まい)()()します。ただ、こののちユダが(くび)をつったということから(うかが)()れるのは、それらによってユダが(つみ)から(すく)われることはなかったということです。ユダもまた、十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスによって、(かみ)さまの(まえ)()たされる必要(ひつよう)がありました。ユダを、(おか)した(つみ)から(すく)うことができるとすれば、それは最高法院(さいこうほういん)ではなく、神殿(しんでん)でもなく、十字架(じゅうじか)()んで()から復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエス・キリストに(ほか)ならなかったのです。
ユダは最後さいごまで、自分じぶんでこれをつぐな責任せきにんを、自分じぶんはたたさねばならない、と考えました。ユダは自分じぶんめ、自分じぶんつみさだめ、絶望ぜつぼうします。
わたくしたちが自分(じぶん)絶望(ぜつぼう)するのは、その(さき)(みち)がないからです。ならばその事態(じたい)解決(かいけつ)は、自分(じぶん)ではできません。()こうから、こちらへやってきてもらう(ほか)ありません。その、()()こうからわたくしたちへと(とど)けられた(みち)、わたくしたちを(つみ)から(すく)(かみ)言葉(ことば)を、(かみ)(しゅ)イエスを()から復活(ふっかつ)させ、(ひび)かせてくださいました。

(いま)(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)は、自分(じぶん)(つぐな)責任(せきにん)自分(じぶん)()()らねばならないという、律法(りっぽう)()わりを(しめ)します。(しゅ)イエスが、わたくしたちの(かか)える(つみ)(のろ)いも()も、十字架(じゅうじか)において(すべ)()()ってくださいました。(そこ)なった関係(かんけい)代償(だいしょう)()たすという責任(せきにん)(しゅ)()()ってくださいます。この(かた)が、わたくしたちのなすべき(つぐな)いを(すべ)()たしたのであり、この(しゅ)(すべ)てこの()をお(ゆだ)ねすることのできる(みち)を、(かみ)はわたくしたちに(そな)えたのです。