「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。主イエスはそう大声で叫び、死んでゆきました。主イエスはご自分を神がお見捨てになったこと、神が共におられないことを嘆きながら死んでゆかれました。その点において、主イエスはご自身に対しても、神に対しても、絶望して死んでゆかれたのだ、と言うことができます。
マタイによる福音書はその全体を通して、インマヌエル「神は我々と共におられる」ということを強調します。しかしこの時、主イエスは神の子なのに、神に見捨てられました。神はどこにおられるというのでしょうか。マタイによる福音書は読み手であるわたくしたちに問います。そもそも、神が愛する子を見捨てるようなことをするものか。そんなのは、神ではないではないか。自分の子を十字架で殺されるままにする神なんて、信じるに値しない。そう思うかもしれません。
主イエスが絶望して死んでゆかれたということから考えさせられますのは、神を信じるわたくしたちもまた、神なき絶望のうちに死ぬことがある、ということです。わたくしたちが願っている通りに神が共におられるということなど、打ち破られてしまう事態に、わたくしたちは直面することがある、ということです。なぜ神が共におられるのに、こんな災いが降りかかったのか。なぜ、神を信じながらも、自分だけがこんな思いをしなくてはならないのか。
しかし神は、この自らの絶望を越えて、わたくしたちを死の向こうから生かしてくださいます。そしてこの道を進むのを、主イエスが伴ってくださいます。神なき絶望の向こうから、神我らと共にいます道を告げるため、神に見捨てられて死んだ主イエスを、神さまは復活させてくださいました。神はこの知らせをわたくしたちに告げ、わたくしたちが未だ知り得なかった、自らの絶望を経て生かされる命に与らせてくださるのです。