2017年7月23日日曜日

「見捨てられた神の子」マタイによる福音書 27:45-50

「わが(かみ)、わが(かみ)、なぜわたしをお見捨(みす)てになったのですか」。(しゅ)イエスはそう大声(おおごえ)(さけ)び、()んでゆきました。(しゅ)イエスはご自分(じぶん)(かみ)がお見捨(みす)てになったこと、(かみ)(とも)におられないことを(なげ)きながら()んでゆかれました。その(てん)において、(しゅ)イエスはご自身(じしん)(たい)しても、(かみ)(たい)しても、絶望(ぜつぼう)して()んでゆかれたのだ、と()うことができます。
マタイによる福音書(ふくいんしょ)はその全体(ぜんたい)(とお)して、インマヌエル「(かみ)我々(われわれ)(とも)におられる」ということを強調(きょうちょう)します。しかしこの(とき)(しゅ)イエスは(かみ)()なのに、(かみ)見捨(みす)てられました。(かみ)はどこにおられるというのでしょうか。マタイによる福音書(ふくいんしょ)()()であるわたくしたちに()います。そもそも、(かみ)(あい)する()見捨(みす)てるようなことをするものか。そんなのは、(かみ)ではないではないか。自分(じぶん)()十字架(じゅうじか)(ころ)されるままにする(かみ)なんて、(しん)じるに(あたい)しない。そう(おも)うかもしれません。
(しゅ)イエスが絶望(ぜつぼう)して()んでゆかれたということから(かんが)えさせられますのは、(かみ)(しん)じるわたくしたちもまた、(かみ)なき絶望(ぜつぼう)のうちに()ぬことがある、ということです。わたくしたちが(ねが)っている(とお)りに(かみ)(とも)におられるということなど、()(やぶ)られてしまう事態(じたい)に、わたくしたちは直面(ちょくめん)することがある、ということです。なぜ(かみ)(とも)におられるのに、こんな(わざわ)いが()りかかったのか。なぜ、(かみ)(しん)じながらも、自分(じぶん)だけがこんな(おも)いをしなくてはならないのか。

しかし(かみ)は、この(みずか)らの絶望(ぜつぼう)()えて、わたくしたちを()()こうから()かしてくださいます。そしてこの(みち)(すす)むのを、(しゅ)イエスが(ともな)ってくださいます。(かみ)なき絶望(ぜつぼう)()こうから、(かみ)(われ)らと(とも)にいます(みち)()げるため、(かみ)見捨(みす)てられて()んだ(しゅ)イエスを、(かみ)さまは復活(ふっかつ)させてくださいました。(かみ)はこの()らせをわたくしたちに()げ、わたくしたちが(いま)()()なかった、(みずか)らの絶望(ぜつぼう)()()かされる(いのち)(あずか)らせてくださるのです。