ペトロは、ガリラヤの湖で網を打つ漁師でした。しかし「わたしについて来なさい」と主イエスに言われ、網を捨てて主イエスに従います。ペトロは自分で漁をして自分を立たせるということをやめてしまいました。そして、主イエスによってこの身を立たせてもらうことへと、一歩踏み出します。ただ主イエスによって自分を神の前に立たせていただくのです。
ですがこの時ペトロは、不意に女中から顔を見破られ、主イエスのことを知らない、と三度言ってしまいます。ペトロは主イエスを裏切ります。これまでペトロは、主イエスが捕らえられても躓かず、死ぬまで後に付き従うことができる、と思いました。それがペトロにとって神の前にあるべき姿であり、そこに立てると思いました。しかし、そうではなかった。ペトロは面目を失います。ペトロは人々の前にも、主イエスの前にも、神の前にも、もはや立つ顔を持ちません。
なおそこでペトロは、自分で自分を立たせねばならないのでしょうか。もしそうなら、ペトロはもはや立てません。そして実のところ、ペトロがこれまで立たせていたのは、主イエスであったのです。彼がよく頑張ったからとか、努力したからとか、それによってペトロが自分で立ってきたのではないのです。確かに主イエスはペトロの頑張りも努力も用います。しかしそれによって神の前にも人の前にも立てたわけではない。主イエスがペトロをこれまでも立ててこられました。
主イエスこそが、神の前にわたくしたちを立たせます。この方によって、わたくしたちは神の前に立つ顔を持ちうるのです。主イエスは、自分で自分を立たせねばならぬという囚われから、この身を解きます。ペトロのような失敗、自分を責めてやまぬ過去の行いからもう逃げなくともよいのは、もはや、自分を立たせるとすれば、それは復活の主イエスの他にないからです。そして、この復活の主イエスがペトロを立ち上がらせたのです。