総督ピラトは主イエスに問います。「お前が、ユダヤ人の王なのか」と。ですが、主イエスは「それは、あなたが言っていることです」、と答えるのみです。ピラトの面前にやってきたこの方がどなたかについては「誰かがこう言っている」、という話ではありません。「あなたがどういうのか」が問題となります。この方に対する、わたしの態度が問題となります。
主イエスが黙ったままである一方、祭司長たちや長老たちは、ピラトになお訴え続けます。主イエスを死刑にする判決を下してもらうためにです。ただ、主イエスがこの訴えに対し反論もしないので、ピラトは驚きながら主イエスに確認します。「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」。不思議なことに、主イエスは一言もお答えになりません。まるで、屠り場に引かれる小羊のように物言わず、口を開きませんでした。主イエスは十字架で死なれます。
わたくしたちが接します人たちは、言葉にしなくともこちらに問うでしょう。イエスがメシアなのか。救い主なのか。わたくしたちは「自分がそう信じる」、と言うことはできます。「あなたをも救うメシアだ」と言うこともできます。ただ、その本人がこれを納得しないまま、自分の根っこに抱えた問題から自由となるでしょうか。わたくしたちには癒されない病、免れない死があるのであり、この壁を越えて生かされる道を歩んでいる、と本人が真心から言えるでしょうか。
わたくしたちは、その人たちの傍らにあって、死からの復活に向かって生かされています。主の復活に、神さまはわたくしたちの血の責任を負う神からの声を響かせてくださいました。たしかになお、自分の根っこに問題を抱えます。しかし神の声に聴き、抱えた問題から自由にされ、礼拝を捧げて参るのです。神さまはわたくしたちをさえ用いて、日々接します人たちに対し、その根っこにある問題を乗り越える道を、差し出しています。