2017年7月9日日曜日

「多くの人のため流された血」マタイによる福音書27:11-26

総督(そうとく)ピラトは(しゅ)イエスに()います。「お前が、ユダヤ(じん)(おう)なのか」と。ですが、(しゅ)イエスは「それは、あなたが()っていることです」、と(こた)えるのみです。ピラトの面前(めんぜん)にやってきたこの(かた)がどなたかについては「(だれ)かがこう()っている」、という(はなし)ではありません。「あなたがどういうのか」が問題(もんだい)となります。この(かた)(たい)する、わたしの態度(たいど)問題(もんだい)となります。
(しゅ)イエスが(だま)ったままである一方(いっぽう)祭司長(さいしちょう)たちや長老(ちょうろう)たちは、ピラトになお(うった)(つづ)けます。(しゅ)イエスを死刑(しけい)にする判決(はんけつ)(くだ)してもらうためにです。ただ、(しゅ)イエスがこの(うった)えに(たい)反論(はんろん)もしないので、ピラトは(おどろ)きながら(しゅ)イエスに確認(かくにん)します。「あのようにお(まえ)不利(ふり)証言(しょうげん)をしているのに、()こえないのか」。不思議(ふしぎ)なことに、(しゅ)イエスは一言(ひとこと)もお(こた)えになりません。まるで、(ほふ)()()かれる小羊(こひつじ)のように物言(ものい)わず、(くち)(ひら)きませんでした。(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()なれます。
わたくしたちがせっしますひとたちは、言葉ことばにしなくともこちらにうでしょう。イエスがメシアなのか。すくぬしなのか。わたくしたちは「自分じぶんがそうしんじる」、とうことはできます。「あなたをもすくうメシアだ」とうこともできます。ただ、その本人ほんにんがこれを納得なっとくしないまま、自分じぶんっこにかかえた問題もんだいから自由じゆうとなるでしょうか。わたくしたちにはいやされないやまいまぬかれないがあるのであり、このかべえてかされるみちあゆんでいる、と本人ほんにん真心まごころからえるでしょうか。

わたくしたちは、その(ひと)たちの(かたわ)らにあって、()からの復活(ふっかつ)()かって()かされています。(しゅ)復活(ふっかつ)に、(かみ)さまはわたくしたちの()責任(せきにん)()(かみ)からの(こえ)(ひび)かせてくださいました。たしかになお、自分(じぶん)()っこに問題(もんだい)(かか)えます。しかし(かみ)(こえ)()き、(かか)えた問題(もんだい)から自由(じゆう)にされ、礼拝(れいはい)(ささ)げて(まい)るのです。(かみ)さまはわたくしたちをさえ(もち)いて、日々(ひび)(せっ)します(ひと)たちに(たい)し、その()っこにある問題(もんだい)()()える(みち)を、()()しています。