十字架の死を前にした主イエスはゲツセマネという所で悲しみもだえて祈ります。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。主イエスはなおも祈ります。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」。
主イエスが祈っても、神さまは答えてくれません。なぜ神はこの杯を過ぎ去らせないのか。なぜ十字架で自分が死なねばならないのか。神は沈黙しています。主イエスはひれ伏します。わたくしたちも、祈っても神から答えを得ないことがあります。そこにおいて「見捨てられた」「神などいない」という思いになります。だからといってそれで立てるかといえば、むしろ絶望に向かって諦めるほかないように思います。主イエスはこの絶望を担い、そして十字架で死にました。
しかし
主イエスは死から復活させられました。神は主イエスを復活させ、沈黙を破ったのです。主イエスは神がおられない死を遂げましたが、神はこの死にまで降りてくださいました。死にまで降りた神が、このお方を復活させてくださいました。そしてわたくしたちの死の先になお、神が我々と共にいます(インマヌエル)という交わりを与える、神の御心を証ししてくださったのです。この御心をわたくしたちに実現すべく、主イエス・キリストの復活は告げ知らされました。
わたくしたちは死すべき自分に向き合わされ、その意味を見出せず、なぜこのような死を自分が迎えなければならないのか、祈っても答えを得ないまま死なねばならないかもしれません。けれども、もはやわたくしたちは神がおられない死ではなく、神共にいます事実に向かう死を迎えるのです。主イエスは、神不在の死という杯を飲みました。これにより、神がおられない死はわたくしたちから過ぎ去らせられたのです。