2017年6月11日日曜日

「この身に行われる神の御心」マタイによる福音書26:36-56

十字架(じゅうじか)()(まえ)にした(しゅ)イエスはゲツセマネという(ところ)(かな)しみもだえて(いの)ります。「(ちち)よ、できることなら、この(さかずき)をわたしから()()らせてください。しかし、わたしの(ねが)いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」。(しゅ)イエスはなおも(いの)ります。「(ちち)よ、わたしが()まないかぎりこの(さかずき)()()らないのでしたら、あなたの御心(みこころ)(おこな)われますように」。
(しゅ)イエスが(いの)っても、(かみ)さまは(こた)えてくれません。なぜ(かみ)はこの(さかずき)()()らせないのか。なぜ十字架(じゅうじか)自分(じぶん)()なねばならないのか。(かみ)沈黙(ちんもく)しています。(しゅ)イエスはひれ()します。わたくしたちも、(いの)っても(かみ)から(こた)えを()ないことがあります。そこにおいて「見捨(みす)てられた」「(かみ)などいない」という(おも)いになります。だからといってそれで()てるかといえば、むしろ絶望(ぜつぼう)()かって(あきら)めるほかないように(おも)います。(しゅ)イエスはこの絶望(ぜつぼう)(にな)い、そして十字架(じゅうじか)()にました。
しかししゅイエスはから復活ふっかつさせられました。かみしゅイエスを復活ふっかつさせ、沈黙ちんもくやぶったのです。しゅイエスはかみがおられないげましたが、かみはこのにまでりてくださいました。にまでりたかみが、このおかた復活ふっかつさせてくださいました。そしてわたくしたちのさきになお、かみ我々われわれともにいます(インマヌエル)というまじわりをあたえる、かみ御心みこころあかししてくださったのです。この御心みこころをわたくしたちに実現じつげんすべく、しゅイエス・キリストの復活ふっかつらされました。

わたくしたちは()すべき自分(じぶん)()()わされ、その意味(いみ)見出(みいだ)せず、なぜこのような()自分(じぶん)(むか)えなければならないのか、(いの)っても(こた)えを()ないまま()なねばならないかもしれません。けれども、もはやわたくしたちは(かみ)がおられない()ではなく、(かみ)(とも)にいます事実(じじつ)()かう()(むか)えるのです。(しゅ)イエスは、(かみ)不在(ふざい)()という(さかずき)()みました。これにより、(かみ)がおられない()はわたくしたちから()()らせられたのです。