2017年6月4日日曜日

「人を立ち上がらす言葉」マタイによる福音書26:17-35

弟子(でし)たちは、「たとえ、御一緒(ごいっしょ)()なねばならなくなっても、あなたのことを()らないなどとは(けっ)して(もう)しません」と()いますが、(しゅ)イエスが()らえられると、(みな)(しゅ)イエスを見捨(みす)てて()げてしまいました(26:56)。弟子(でし)たちは(しゅ)イエスとの関係(かんけい)(そこ)ない、(やぶ)れを(かか)えたままです。そのまま(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()(わた)され()んでしまいました。
(しゅ)イエスが()んでしまいましたから、もう、弟子(でし)たちは関係(かんけい)修復(しゅうふく)することがかないません。(しゅ)見捨(みす)て、()らないと公言(こうげん)した(かれ)らは、(ひと)(まえ)にも(かみ)(まえ)にも()()ません。そこでたどり()くのは、「もうだめだ」というところです。けれどもこの弟子(でし)たちに(しゅ)イエスは約束(やくそく)しました。「わたしは復活(ふっかつ)した(のち)、あなたがたより(さき)にガリラヤへ()く」。(しゅ)イエスはなお弟子(でし)たちを見捨(みす)てません。ご自身(じしん)復活(ふっかつ)させられた(のち)には、この弟子(でし)たちに()いに()く、と約束(やくそく)します。
弟子でしたちがしゅイエスを裏切うらぎることになったこのばんしゅイエスは特別とくべつ食卓しょくたくをもって弟子でしたちにげておきました。「ってべなさい。これはわたしのからだである」。「みな、このさかずきからみなさい。これは、つみゆるされるように、おおくのひとのためにながされるわたしの契約けいやくである」。しゅイエスはパンをさかずきあずからせ、ご自身じしん十字架じゅうじかをもってわたくしたちのいのち責任せきにんうという決意けついあらわします。もはやなくなるこのいのち責任せきにんうと宣言せんげんするのです。

十字架(じゅうじか)()から三日目(みっかめ)復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスは弟子(でし)たちに出会(であ)ってくださいました。それから五十日目(ごじゅうにちめ)弟子(でし)たちは聖霊(せいれい)(あた)えられ、(しゅ)イエスの()復活(ふっかつ)が、自分(じぶん)とすべての(たみ)(ため)だと()ります。(いま)(かみ)(まね)かれたわたくしたちの(まえ)にあるのは、この()()から復活(ふっかつ)させる(かみ)言葉(ことば)です。(しゅ)聖霊(せいれい)(あた)え、この実現(じつげん)()けわたくしたちを(あら)たに()()がらせます。(しゅ)イエスは()すべきわたくしたちの責任(せきにん)()()ってくださるというのです。