大祭司カイアファは主イエスに問います、「お前は神の子、メシアなのか」。主イエスは、「それは、あなたが言ったことです」と答え、問うたカイアファが主イエスを何者と言うのか、逆に問います。カイアファにとり目の前のイエスは、ここで裁かれ、死刑にされて終わる他ありません。メシアとして神の右に座りやがて天の雲に乗って来るなど考えられません。
けれども、全能の神さまがこの方をそうするという結末を、神さまは主イエスを十字架の死から復活させて始めてくださいました。わたくしたちは主イエスの復活から、この方が自分のメシアであること、この方が神の右に座り、やがて天の雲に乗って来るまことの裁き主であることを聞き、ここに神が希望をわたくしたちのため備えたと信じます。わたくしたちが見ていた自らの結末は希望を失って終わる他なかったはずでしたが、神においてはそうではなかったのです。
わたくしたちは、自分がどうせこんなものでしかない、と自分の結末を決めつけることがあります。その、今ある自分でいられるための目的にしか生きられず閉じこもることがあります。大祭司カイアファはむしろ自分を過信したようですが、もし彼の見る結末が全てなら、復活させられた主イエスの前に彼はなお生きる道を持ちません。彼は主イエスが三日目に復活させられた事実を隠し、神が始めた新たな結末を認めず、自分のままでいられる道を行こうとします(28:12)。
わたくしたちは造り主によって始められました。そのわたくしたちの結末はこの神の手の中にあります。この結末は、わたくしたちが見ている結末を打ち破り、新たにします。このため神はわたくしたちを礼拝に招き、御子の復活を告げ知らせてくださいました。この結末を与える主がおられ、このご支配のもと、わたくしたちは委ねられた地上の働きに励みます。わたくしたちはこの身を新たに生かす、造り主の声に聞き従って参るのです。