2017年3月12日日曜日

「死人の復活」マタイによる福音書22:23-33

サドカイ()(ひと)たちは、死人(しにん)復活(ふっかつ)などないという主張(しゅちょう)(ただ)しさを(しゅ)イエスに(みと)めさせようとして()います。長男(ちょうなん)(つま)をめとったが息子(むすこ)()ないまま()んだ。次男(じなん)長男(ちょうなん)跡継(あとつ)ぎを(のこ)すためこの(つま)をめとったが、()ないまま()んだ。とうとう、七男(しちなん)までもこの(つま)をめとりながら()ずに()んだ。そしてこの(つま)()んだのだが、復活(ふっかつ)()には一体(いったい)(だれ)がこの(つま)をめとるのか。
(しゅ)イエスは()います。復活(ふっかつ)(とき)には、めとることも(とつ)ぐこともない。だから心配(しんぱい)はないのです。そしてサドカイ()(ひと)たちも(みと)める聖書(せいしょ)言葉(ことば)に、すでに死人(しにん)復活(ふっかつ)について(かみ)()われたところがあると指摘(してき)します。(かみ)はモーセにご自身(じしん)(あらわ)すにあたり、「わたしはアブラハムの(かみ)、イサクの(かみ)、ヤコブの(かみ)である」と名乗(なの)りました。そこで父祖(ふそ)たちの()は、(かみ)(まえ)になお()かされる(もの)として()げられたのであり、「(かみ)()んだ(もの)(かみ)ではなく、()きている(もの)(かみ)なのだ」と()うのです。
モーセにとって当時とうじアブラハムやイサクやヤコブは、んでしまった父祖ふそです。ですがしゅイエスは、この父祖ふそたちもかみまえにあってはきているといます。かみさまはんだものをも、そのびご自身じしんまえかしておられる。いまだそうではないときなかにあるわたくしたちにとってこのものたちは死人しにんほかなりませんが、かみさまにおいては、このものたちがきている。そしてこのきているものたちのかみとしてかみはご自身じしんをモーセにあらわした。そうしゅイエスはうのです。

(かみ)さまはわたくしたちの()()んで、わたくしたちを()から(いのち)へと()かします。この(かた)天地万物(てんちばんぶつ)(つく)(ぬし)であり、この(かた)がわたくしたちを(つく)ってくださいました。そして()んだわたくしたちが(かみ)(まえ)()かされるため、(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させ、この(かみ)(ちから)をわたくしたちに()げておられます。わたくしたちを礼拝(れいはい)へと(まね)(かみ)は、わたくしたちの()()んでご自身(じしん)(まえ)()から(いのち)へと()かすお(かた)なのです。