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王が王子のために婚宴を催します。王は息子のため、婚宴を催すことが喜びなのです。この婚宴に多くの者を招き、広間いっぱいになって、皆が王の喜びで満たされることを王は願います。そのために王は持ちうる手をすべて尽くし、食事の用意をし、婚宴に与る者を招きます。主イエスは天の父なる神さまがわたくしたちを終わりの日の婚宴に与らせる喜びを、この王の喜びにたとえました。
天の父なる神さまはわたくしたちを御子の婚宴に招きます。わたくしたちをも、喜びの食卓に与らせたいのです。それが神さまの喜びです。預言者イザヤは神の民に言います。「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる(62:5)」。主イエスはご自身を花婿になぞらえ(9:15)、婚宴の食卓へとわたくしたちを導きます。
この
王子の婚宴、喜びの食卓へと招く、天の父なる神さまの声に新たに聴くことがわたくしたちにとっても幸いです。聞いたつもりで終わるなら、何を聞いたのか不確かになりがちです。天の父なる神さまは、なおこの身に語りかけます。わたくしたちの名を呼びます。この神さまの喜びを受け止めることが大切です。主イエスはこの婚宴の先取りとして、ご自身の食卓を祝いました(26:26)。そしてこの聖餐に繰り返し与るよう主はわたくしたちに求めます。
主イエスはこのたとえの数日後、捕らえられます。花婿が奪い取られる時がきました。主イエスは十字架で殺されます。しかしこの御子を父なる神さまは復活させ、十字架の死をもってさえ、ご自身と御子との交わりが絶やされず一つであることを証ししました。このご自身の花嫁として、御子は教会を建ててくださいます。御子を復活させた神の喜びが全うされる民として、わたくしたちをご自身の食卓に迎えてくださるのです。