2017年2月12日日曜日

「いま示された救いの道」マタイによる福音書21:23-32

天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまは、ご自身(じしん)の顔(かお)の前(まえ)にわたくしたちが照(て)らされ、顔(かお)と顔(かお)とを合(あ)わせて見(み)ることを望(のぞ)みます。造(つく)られたわたくしたちが造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)の顔(かお)をいつも仰(おお)ぎ見(み)ることを、望(のぞ)んでおられるのです。幼子(おさなご)は親(おや)の膝(ひざ)の上(うえ)に座(すわ)ろう、ときょうだいで親(おや)の膝(ひざ)を奪(うば)い合(あ)います。そこが一番(いちばん)だと知(し)っているからです。わたくしたちが神(かみ)の懐(ふところ)に抱(いだ)かれるのは最(もっと)も素(す)晴(ば)らしいことです。主(しゅ)イエスは父(ちち)なる神(かみ)さまの顔(かお)の前(まえ)へとわたくしたちを招(まね)きます。
最初(さいしょ)の人(ひと)アダムは、取(と)って食(た)べるなと言われていた善悪(ぜんあく)の知識(ちしき)の木(き)から実(み)を取(と)って食(た)べました。蛇(へび)は言(い)います。「それを食(た)べると、目(め)が開(ひら)け、神(かみ)のように善悪(ぜんあく)を知(し)るものとなる」。アダムは善悪(ぜんあく)を知(し)ったかもしれません。彼(かれ)は善悪(ぜんあく)を知(し)った世界(せかい)に対(たい)し顔(かお)を持(も)ちます。しかし一方(いっぽう)でそれは神(かみ)の顔(かお)を避(さ)けることへと向(む)かいました(創世記3:8)。そのアダムを主(しゅ)なる神(かみ)さまは呼(よ)びます。「どこにいるのか」。
神殿(しんでん)で祭司(さいし)長(ちょう)や民(たみ)の長老(ちょうろう)たちが主(しゅ)イエスのもとに来(き)ました。彼(かれ)らはエルサレムの貴族(きぞく)で神殿(しんでん)の権威(けんい)です。彼(かれ)らは主(しゅ)イエスに問(と)います。何(なん)の権威(けんい)で主(しゅ)イエスが目(め)の見(み)えない人(ひと)や足(あし)の不自由(ふじゆう)な人(ひと)たちを癒(いや)すのか。主(しゅ)イエスは問(と)い返(かえ)します。ヨハネの洗礼(せんれい)は天(てん)からのものか人(ひと)からのものか。彼(かれ)らはヨハネを信(しん)じませんでした。一方(いっぽう)群衆(ぐんしゅう)はヨハネを天(てん)からの預言者(よげんしゃ)と見(み)ます。この群衆(ぐんしゅう)を恐(おそ)れる彼(かれ)らは、どちらとも言(い)えません。「わからない」と答(こた)え、神(かみ)の前(まえ)から顔(かお)を隠(かく)してしまいます。
わたくしたちは面目(めんぼく)を失(うしな)うようなところに立(た)つことを恐(おそ)れます。しかし誰(だれ)にも顔向(かおむ)けできなくなったわたくしたちに、なお立(た)つところがあります。

主(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)で死(し)にました。それは権威(けんい)なき者(もの)の証(あかし)として人(ひと)の目(め)には見(み)えました。しかし神(かみ)さまはこの御子(みこ)イエスを復活(ふっかつ)させ、死(し)を超(こ)えてこの方(かた)を神(かみ)の子(こ)としてくださいました。御子(みこ)の復活(ふっかつ)は、父(ちち)なる神(かみ)さまが死(し)を超(こ)えてわたくしたちを愛(あい)し抜(ぬ)く証(あかし)として告(つ)げられています。