天の父なる神さまは、ご自身の顔の前にわたくしたちが照らされ、顔と顔とを合わせて見ることを望みます。造られたわたくしたちが造り主なる神の顔をいつも仰ぎ見ることを、望んでおられるのです。幼子は親の膝の上に座ろう、ときょうだいで親の膝を奪い合います。そこが一番だと知っているからです。わたくしたちが神の懐に抱かれるのは最も素晴らしいことです。主イエスは父なる神さまの顔の前へとわたくしたちを招きます。
最初の人アダムは、取って食べるなと言われていた善悪の知識の木から実を取って食べました。蛇は言います。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」。アダムは善悪を知ったかもしれません。彼は善悪を知った世界に対し顔を持ちます。しかし一方でそれは神の顔を避けることへと向かいました(創世記3:8)。そのアダムを主なる神さまは呼びます。「どこにいるのか」。
神殿で祭司長や民の長老たちが主イエスのもとに来ました。彼らはエルサレムの貴族で神殿の権威です。彼らは主イエスに問います。何の権威で主イエスが目の見えない人や足の不自由な人たちを癒すのか。主イエスは問い返します。ヨハネの洗礼は天からのものか人からのものか。彼らはヨハネを信じませんでした。一方群衆はヨハネを天からの預言者と見ます。この群衆を恐れる彼らは、どちらとも言えません。「わからない」と答え、神の前から顔を隠してしまいます。
わたくしたちは面目を失うようなところに立つことを恐れます。しかし誰にも顔向けできなくなったわたくしたちに、なお立つところがあります。
主イエスは十字架で死にました。それは権威なき者の証として人の目には見えました。しかし神さまはこの御子イエスを復活させ、死を超えてこの方を神の子としてくださいました。御子の復活は、父なる神さまが死を超えてわたくしたちを愛し抜く証として告げられています。