2017年2月5日日曜日

「枯れたいちじくの木」マタイによる福音書21:18-22

朝早(あさはや)く、主(しゅ)イエスは都(みやこ)エルサレムへと帰(かえ)る道(みち)すがら、お腹(なか)が減(へ)ったのでいちじくの木(き)に実(み)があるか探(さが)しました。しかし、いちじくは葉(は)が生(お)い茂(しげ)るばかりです。主(しゅ)イエスは言(い)います。「今(いま)から後(のち)いつまでも、お前(まえ)には実(み)がならないように」。すると、いちじくの木(き)はたちまち枯(か)れてしまいました。
主(しゅ)イエスは弟子(でし)たちに言(い)います。「あなたがたも信仰(しんこう)を持(も)ち、疑(うたが)わないならば、いちじくの木(き)に起(お)こったようなことができるばかりでなく、この山(やま)に向(む)かい、『立(た)ち上(あ)がって、海(うみ)に飛(と)び込(こ)め』と言(い)っても、そのとおりになる。信(しん)じて祈(いの)るならば、求(もと)めるものは何(なん)でも得(え)られる」。
疑(うたが)わず祈(いの)ればその通(とお)りになる。そう教(おし)える主イエスはわたくしたちに、そこで何(なに)を祈(いの)るのか問(と)います。「実(み)がならないように」と主(しゅ)イエスが言(い)ったから、わたくしたちは「そうなるしかない」と祈(いの)るのでしょうか。ならば祈(いの)らずともそうなることでしょう。
わたくしたちは祈いのりがかなわずにいることがあります。そこで神かみに見捨みすてられたと立たち尽つくすかもしれません。そのわたくしたちが、それでも神かみを見限みかぎらず、なお「父ちちよ」と叫さけぶことを、主しゅイエスは求もとめます。
主(しゅ)イエスはこう祈(いの)るよう命(めい)じました。「わたしたちを誘惑(ゆうわく)に遭(あ)わせず、悪(わる)い者(もの)から救(すく)ってください(6:13)」。わたくしたちは「父(ちち)よ、この惨(みじ)めな私(わたし)を見捨(みす)てず、絶望(ぜつぼう)からお救(すく)いください」と祈(いの)るのです。その道(みち)を主(しゅ)イエスが備(そな)えてくださいました。

わたくしたちは「祈(いの)っても無駄(むだ)だったからもう祈(いの)らない」のではありません。わたくしたちの叫(さけ)びを聞(き)く天(てん)の父(ちち)がいるのです。わたくしたちが神(かみ)を見(み)限(かぎ)ったとしても、しかし神(かみ)はわたくしたちを見捨(みす)てません。神(かみ)に見捨(みす)てられ絶望(ぜつぼう)のうちに十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを、神(かみ)さまは復活(ふっかつ)させました。この神(かみ)さまがわたくしたちの絶望(ぜつぼう)を越(こ)える、希望(きぼう)の道(みち)をそなえておられます。この父(ちち)なる神(かみ)に、わたくしたちはなお叫(さけ)び求(もと)めることができるのです。