2017年2月19日日曜日

「隅の親石」マタイによる福音書21:33-46

天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまは御子(みこ)キリストを土台(どだい)として神(かみ)の国(くに)を建(た)てます。この神(かみ)の国(くに)に生(い)かされるべく、神(かみ)さまはわたくしたちの名(な)を呼(よ)び、キリストの体(からだ)なる教会(きょうかい)へと招(まね)きます。御父(みちち)は御(み)言葉(ことば)と御霊(みたま)とによって御子(みこ)のご支配(しはい)をわたくしたちに満(み)たします。わたくしたちはキリストを土台(どだい)とする道(みち)を備(そな)えられており、このご支配(しはい)のもと、死(し)から命(いのち)へと生(い)かされるのです。
主(しゅ)イエスは言(い)います。「家(いえ)を建(た)てる者(もの)の捨(す)てた石(いし)、これが隅(すみ)の親石(おやいし)となった(詩編118:22)」。親石(おやいし)は石(いし)造(づく)りの家(いえ)を建(た)てる要(かなめ)として欠(か)かせません。建物(たてもの)全体(ぜんたい)に、この親石(おやいし)の働(はたら)きが効(き)いています。ただ、神(かみ)さまは人々(ひとびと)が捨(す)てた石(いし)を親石(おやいし)として据(す)え、御国(みくに)を建(た)てる。主(しゅ)イエスはここにご自身(じしん)の十字架(じゅうじか)の死(し)を見(み)ます。家(いえ)を建(た)てる者(もの)たちが捨(す)てた石(いし)。しかし神(かみ)さまはそれによって神(かみ)の国(くに)を建(た)てる。十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを神(かみ)さまは復活(ふっかつ)させ、この方(かた)を隅(すみ)の親石(おやいし)としてくださいました。
教会(きょうかい)へと招(まね)かれたわたくしたちは、自分(じぶん)でそこを選(えら)んで立(た)つのかもしれません。ですが、自分(じぶん)の名(な)を呼(よ)ぶ神(かみ)さまに応(こた)えてひれ伏(ふ)し、主(しゅ)イエス・キリストのもとに立(た)たされるのが幸(さいわ)いです。もし、わたくしたちが自分(じぶん)で選(えら)んで立(た)つというのなら、選(えら)んだ自分(じぶん)の考(かんが)えこそが要(かなめ)であり、その支配(しはい)が及(およ)ぶことを第一(だいいち)としてしまいかねません。それでは神(かみ)の国(くに)は成(な)り立(た)ちません。単(たん)に自分(じぶん)の都(つ)合(ごう)の良(よ)い集団(しゅうだん)としてしまい、死(し)を越(こ)えて生(い)きることにはならないでありましょう。

この自分(じぶん)の名(な)を呼(よ)んでくださった神(かみ)のご支配(しはい)が満(み)ちることにこそ、死(し)をも打(う)ち破(やぶ)る平安(へいあん)があります。そして神(かみ)さまは主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)によって現(あらわ)した神(かみ)のご支配(しはい)を満(み)たすため教会(きょうかい)を建(た)てます。そこで教会(きょうかい)が主(しゅ)イエス・キリストのご支配(しはい)を捨(す)てるなら、神(かみ)さまは別(べつ)のところに、ご支配(しはい)が満(み)ちる教(きょう)会(かい)をお建(た)てになります。わたくしたちは、この名(な)を呼(よ)んでくださった神(かみ)に聴(き)き、据(す)えられた親(おや)石(いし)のもとに立(た)ち上(あ)がらされることを希望(きぼう)とするのです。