主イエスは神殿の境内に入ると、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出して言いました。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」。神さまを礼拝する神殿が強盗の巣であるなら、わたくしたちはそこへ行くのに剣や棒を持って警戒しなければなりません。安心して神さまに祈るのも妨げられてしまいます。
主イエスはこの妨げを取り去ってゆきます。神へと向かうべき祈りが妨げられないよう、わたくしたちを整えてくださるのです。わたくしたちが真心から神を礼拝するため、主イエスはわたくしたちのところにまでやって来られました。この主イエスはわたくしたちが献げる礼拝も「祈りの家と呼ばれるべきである」とご覧です。キリストの教会は神を礼拝するためにあります。主イエスは、誰もが何の妨げもなく神を礼拝するところとして、教会を建て上げてゆきます。
教会で祈るのは誰か人に見てもらうためではありません。祈りは神へと向かう、天の父への叫びです。礼拝ではこの叫びを、賛美と祈りと告白の言葉によって共に献げます。そこではわたくしたち自身が生ける神の家、祈りの家となる必要があります。わたくしたちも主イエスによって、妨げを取り去ってもらわねばなりません。このため主イエスは、ご自身の十字架の死と死からの復活を告げ知らせ、わたくしたちの叫びを聞く天の父が確かにおられることを証します。
不確かな世にあって、死よりも確かな造り主の御意思として、父なる神さまは御子イエスを死者の中から復活させてくださいました。この御意志のもと、わたくしたちをも御子の後に新たに生かすため、御子はご自身の復活を証し、聖霊を注いでくださいます。わたくしたちはこの約束の前に、安心して叫んでよいのです。確かな信頼を置いて、祈ることができるのです。父なる神さまはこの礼拝へとわたくしたちの名を呼んで招いておられます。