2017年1月1日日曜日

「いかに幸いなことか」詩編1:1-6

「いかに(さいわ)いなことか」「(しゅ)(おし)えを(あい)し、その(おし)えを(ひる)(よる)(くち)ずさむ(ひと)。その(ひと)(なが)れのほとりに()えられた()。ときが(めぐ)()れば()(むす)び、()もしおれることがない。その(ひと)のすることはすべて、繁栄(はんえい)をもたらす」。
詩編(しへん)第一篇(だいいっぺん)がわたくしたちを「こっちだよ」と()()せますのは、「(なが)れのほとりに()えられた()」の姿(すがた)です。わたくしたちは砂漠(さばく)()ったことがなくとも、写真(しゃしん)映像(えいぞう)絵画(かいが)から、砂漠(さばく)のオアシスを(おも)()かべることができます。ほかには(なに)もない、()()てた地面(じめん)(ひろ)がる。また、見渡(みわた)(かぎ)りの(すな)(うみ)。その(なか)に、ただ(ひと)()えるオアシスがある。(ちい)さな水辺(みずべ)()()(なら)んで()える。その()はたっぷりと(みず)()()げ、青々(あおあお)()(しげ)らす。
詩編(しへん)第一篇(だいいっぺん)は、(しお)(なが)れのような、(ひと)つの(おお)きな(なが)れを(えが)き、わたくしたちに(しめ)します。そして、自分(じぶん)がこの(おお)きな(しお)(なが)れの(なか)にある、ということに()づいていることが、大切(たいせつ)です。
ただわたくしたちは、そうではないながれのなか自分じぶんがあるとおもうかもしれません。あさがあってひるがあってよるておしまいの人生じんせいというながれです。一方いっぽうかみさまがながれは、ゆうべがあってもあさるのです。わたくしたちにあたしいあさをもたらしてくださる、かみさまのおおきなしおながれのなかにわたくしたちがかれています。

この、(いのち)へと(いた)(なが)れをわたくしたちに()()すため、(しゅ)イエスがやって()られます。(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させ、ご自身(じしん)(いのち)(みなもと)であり、()んだわたくしたちをさえ()()こす、わたくしたちの(つく)(ぬし)だと宣言(せんげん)してくださいました。(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)は、(つく)(ぬし)なる(かみ)がこの()実現(じつげん)しようと(かた)ってくださった(しゅ)(おし)えなのです。(かみ)さまはわたくしたちを、()から(いのち)へと()かそうとお(かんが)えです。()(むす)ばず()わらせるのではない。しおれて()わらせようとしているのでもない。わたくしたちをご自身(じしん)(いのち)(みず)でたっぷり()たしてくださいます。