「いかに
幸いなことか」「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」。
詩編第一篇がわたくしたちを「こっちだよ」と引き寄せますのは、「流れのほとりに植えられた木」の姿です。わたくしたちは砂漠へ行ったことがなくとも、写真や映像、絵画から、砂漠のオアシスを思い浮かべることができます。ほかには何もない、荒れ果てた地面が広がる。また、見渡す限りの砂の海。その中に、ただ一つ見えるオアシスがある。小さな水辺に木が立ち並んで見える。その木はたっぷりと水を吸い上げ、青々と葉を茂らす。
詩編第一篇は、潮の流れのような、一つの大きな流れを描き、わたくしたちに示します。そして、自分がこの大きな潮の流れの中にある、ということに気づいていることが、大切です。
ただわたくしたちは、そうではない
流れの中に自分があると思うかもしれません。朝があって昼があって夜が来ておしまいの人生という流れです。一方神さまが生み出す流れは、夕べがあっても朝が来るのです。わたくしたちに新しい朝をもたらしてくださる、神さまの大きな潮の流れの中にわたくしたちが置かれています。
この、命へと至る流れをわたくしたちに差し出すため、主イエスがやって来られます。神さまは、十字架で死んだ主イエスを死者の中から復活させ、ご自身が命の源であり、死んだわたくしたちをさえ呼び起こす、わたくしたちの造り主だと宣言してくださいました。主イエスの復活は、造り主なる神がこの身に実現しようと語ってくださった主の教えなのです。神さまはわたくしたちを、死から命へと生かそうとお考えです。実を結ばず終わらせるのではない。しおれて終わらせようとしているのでもない。わたくしたちをご自身の命の水でたっぷり満たしてくださいます。