ヨセフは、妻マリアとひそかに縁を切ろうと決心します。それはいわば「運命」に引きずられるものです。「マリアは「聖霊によってお腹に子を宿した」と言い出した。自分は、そんなことをする神に振り回され、念願のマリアとの結婚も実現せず、縁を切らねばならない。あきらめるほかない」と。
この運命は運命であるなら、変えることはできません。そして、この運命をヨセフが受け入れるのに、何も神が共にいる必要はありません。神がいなくともやっていけることです。信じようが信じまいが、行先は変わりません。
たしかに、神がわたくしたちと共にあるという事実は、わたくしたちが認めなくとも事実です。ですが、その神を認めずに、わたくしたちが「神共にいます生」を生きられるでしょうか。信じなくとも神はいるのだから、信じても信じなくても同じ「なるようになる」というのなら、それは運命だということでしょう。そう受け止めてやり過ごせることがあるでしょう。ですが、一旦災いが降りかかり、苦しみの中に突き放されたようになったなら、わたくしたちは「これも運命だ」と諦めることはできても、それによって希望が開けるでしょうか。
主はみ使いをヨセフに送りました。主はヨセフが見ていた道とは別の道をご覧です。主は、わたくしたちが「そうだ」と見ることを、必ずしも「そうだ」と見ていません。むしろ主はわたくしたちが未だ見ることのなかったところをすでにご覧で、そこへとヨセフを引き上げるのです。
その、万事を益とする、造り主としての神の御意志を、神さまは十字架で死んだ主イエスを死者の中から復活させ、全ての民へと表しました。死者の復活は、死んだ者にさえ神が御手を差し伸べると証します。その御手によって開かれた生は、神の目に全く良いものとして差し出されています。この新たな道を行けるのは、主がなお共におられるからです。この希望の道を主は歩ませてくださいます。