永遠の命を得ようと願う青年に主イエスは言います。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。主イエスは、ご自身の後に従うことを強調します。主イエスこそ、完全であることをやめることができるほどに、完全であられました。
神の子でありながら、なぜ十字架で死ななければならなかったのか。それは、死すべきわたしという一人を得るためです。わたくしたちが抱える絶望を負い尽くして、主イエスは十字架で死にました。実に主イエスは、もう神などいないという絶望を負って死にました。十字架から救う神がいない、神不在の絶望の死を遂げたのです。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(二七・四六)」という叫びに表されています。
しかしその主イエスが、三日目に死者の中から復活させられました。神なき絶望のうちに死んだ主イエスを、しかし神さまは復活させてくださった。それは、たとえわたくしたちが絶望のうちに死を迎えたとしても、もはやわたくしたちは神のいない死を迎えるのではない、ということです。
なんとも不可解なことではありますが、何でもできる神さまは、神であることをおやめになることすらおできなる。おやめになることをもって、神が我々と共にいますということを表されたのです。神なき絶望のうちに死んでいった主イエスが神によって復活させられました。もはやわたくしたちが迎える死は、変えられました。たとえわたくしたちが神などいないと絶望したとしても、なおその死と共に神がおられます。わたくしたちの闇の奥底にまで、主イエスが降ってくださいました。その根底から、主イエスはわたくしたちを支えます。なおわたくしたちを生かす神が共におられる世界を、神さまはわたくしたちに始められたのです。