2016年12月4日日曜日

「完全になりたいのなら」マタイによる福音書19:13-30

永遠(えいえん)(いのち)()ようと(ねが)青年(せいねん)(しゅ)イエスは()います。「もし完全(かんぜん)になりたいのなら、()って()(もの)()(はら)い、(まず)しい人々(ひとびと)(ほどこ)しなさい。そうすれば、(てん)(とみ)()むことになる。それから、わたしに(したが)いなさい」。(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)(あと)(したが)うことを強調(きょうちょう)します。(しゅ)イエスこそ、(かん)(ぜん)であることをやめることができるほどに、完全(かんぜん)であられました。
(かみ)()でありながら、なぜ十字架(じゅうじか)()ななければならなかったのか。それは、()すべきわたしという一人(ひとり)()るためです。わたくしたちが(かか)える絶望(ぜつぼう)()()くして、(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()にました。(じつ)(しゅ)イエスは、もう(かみ)などいないという絶望(ぜつぼう)()って()にました。十字架(じゅうじか)から(すく)(かみ)がいない、(かみ)不在(ふざい)絶望(ぜつぼう)()()げたのです。これは「わが(かみ)、わが(かみ)、なぜわたしをお見捨(みす)てになったのですか(二七・四六)」という(さけ)びに(あらわ)されています。
しかしその(しゅ)イエスが、三日目(みっかめ)(しゃなかから復活ふっかつさせられました。かみなき絶望ぜつぼうのうちにんだしゅイエスを、しかしかみさまは復活ふっかつさせてくださった。それは、たとえわたくしたちが絶望ぜつぼうのうちにむかえたとしても、もはやわたくしたちはかみのいないむかえるのではない、ということです。

なんとも不可解(ふかかい)なことではありますが、(なに)でもできる(かみ)さまは、(かみ)であることをおやめになることすらおできなる。おやめになることをもって、(かみ)我々(われわれ)(とも)にいますということを(あらわ)されたのです。(かみ)なき絶望(ぜつぼう)のうちに()んでいった(しゅ)イエスが(かみ)によって復活(ふっかつ)させられました。もはやわたくしたちが(むか)える()は、()えられました。たとえわたくしたちが(かみ)などいないと絶望(ぜつぼう)したとしても、なおその()(とも)(かみ)がおられます。わたくしたちの(やみ)奥底(おくそこ)にまで、(しゅ)イエスが(くだ)ってくださいました。その根底(こんてい)から、(しゅ)イエスはわたくしたちを(ささ)えます。なおわたくしたちを()かす(かみ)(とも)におられる世界(せかい)を、(かみ)さまはわたくしたちに(はじ)められたのです。