夕方、ぶどう園の主人は五時に雇った者にも、朝早く雇った者にも、同じ賃金を与えました。これに不平を言う、最初に雇われた者へ主人は言います。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。
主イエスは、この主人の言葉によって、わたくしたちに約束される永遠の命が、ただ神の恵みによると強調します。というのも、わたくしたちはどこかで、「本当に自分は大丈夫だろうか」と疑うことがあるからです。
特に、早く洗礼を受けたものの、今やその喜びを忘れそうになっている場合があります。自分は弱い。足りない自分が本当に死から救われるだろうか。心配になり、何かもっと自分が良い働きをせねば、と思い込んでしまいかねません。しかし主イエスは、どこまでいっても、ただ父なる神の恵みのみであることを強調します。
ならば、もっと後になって洗礼を受けたらよかったのかといえば、そうではありません。これは神さまが選ぶことであり、神さまはご自分のものをご自分のしたいようになさいます。早くに洗礼を受けたなら、それだけより長く、遣わされた働きの場、生活の座で、神の祝福を祝福としていただくのです。これは後に洗礼を受けた人がもはや願ってもとり返せないものです。
そして、後の者であろうと先の者であろうと、心配しかねないわたくしたちのため、主イエスは洗礼と聖餐に与ることをわたくしたちに命じます。主イエスはこれにより永遠の命に与らせ、確かにします。主人は最後に命じました。「自分の分を受け取って帰りなさい」。わたくしたちは永遠の命を受け取り、自分の分として与えられた働き、生活の座へと、遣わされます。その歩みは様々ですが、神はそれぞれの歩みを、永遠の命になお与ることへと向けています。そして、わたくしたちの働き、生活の座を、神はわたくしたちを通し、ご自身の祝福で満たしてくださるのです。