2016年12月11日日曜日

「永遠の命の約束」マタイによる福音書20:1-16


夕方(ゆうがた)、ぶどう(えん)主人(しゅじん)五時(ごじ)(やと)った(もの)にも、朝早(あさはや)(やと)った(もの)にも、(おな)賃金(ちんぎん)(あた)えました。これに不平(ふへい)()う、最初(さいしょ)(やと)われた(もの)主人(しゅじん)()います。「自分(じぶん)のものを自分(じぶん)のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前(きまえ)のよさをねたむのか」。
(しゅ)イエスは、この主人(しゅじん)言葉(ことば)によって、わたくしたちに約束(やくそく)される永遠(えいえん)(いのち)が、ただ(かみ)(めぐ)みによると強調(きょうちょう)します。というのも、わたくしたちはどこかで、「本当(ほんとう)自分(じぶん)大丈夫(だいじょうぶ)だろうか」と(うたが)うことがあるからです。
(とく)に、(はや)洗礼(せんれい)()けたものの、(いま)やその(よろこ)びを(わす)れそうになっている場合(ばあい)があります。自分(じぶん)(よわ)い。()りない自分(じぶん)本当(ほんとう)()から(すく)われるだろうか。心配(しんぱい)になり、(なに)かもっと自分(じぶん)()(はたら)きをせねば、と(おも)()んでしまいかねません。しかし(しゅ)イエスは、どこまでいっても、ただ(ちち)なる(かみ)(めぐ)みのみであることを強調(きょうちょう)します。
ならば、もっと(あと)になって洗礼(せんれい)()けたらよかったのかといえば、そうではありません。これは(かみ)さまが(えら)ぶことであり、(かみ)さまはご自分(じぶん)のものをご自分(じぶん)のしたいようになさいます。(はや)くに洗礼(せんれい)()けたなら、それだけより(なが)く、(つか)わされた(はたら)きの()生活(せいかつ)()で、(かみ)祝福(しゅくふく)祝福(しゅくふく)としていただくのです。これは(あと)洗礼(せんれい)()けた(ひと)がもはや(ねが)ってもとり(かえ)せないものです。
そして、(あと)(もの)であろうと(さき)(もの)であろうと、心配(しんぱい)しかねないわたくしたちのため、(しゅ)イエスは洗礼(せんれい)聖餐(せいさん)(あずか)ることをわたくしたちに(めい)じます。(しゅ)イエスはこれにより永遠(えいえん)(いのち)(あずか)らせ、(たし)かにします。主人(しゅじん)最後(さいご)に命じました。「自分(じぶん)(ふん)()()って(かえ)りなさい」。わたくしたちは永遠(えいえん)(いのち)()()り、自分(じぶん)(ふん)として(あた)えられた(はたら)き、生活(せいかつ)()へと、(つか)わされます。その(あゆ)みは様々(さまざま)ですが、(かみ)はそれぞれの(あゆ)みを、永遠(えいえん)(いのち)になお(あずか)ることへと()けています。そして、わたくしたちの(はたら)き、生活(せいかつ)()を、(かみ)はわたくしたちを(とお)し、ご自身(じしん)祝福(しゅくふく)()たしてくださるのです。